「ノルマントンの事變をして日英の交際を妨げしむる勿れ」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「ノルマントンの事變をして日英の交際を妨げしむる勿れ」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

ノルマントンの事變をして日英の交際を妨げしむる勿れ

英國は世界の海王なり苟も東洋に國するものは政治上に商賣上に常に英國の好意歡心を失

ふ可らずとて我輩の宿論曾て其方針を誤りたることなきは内外人の了知する所ならん我日

本國も開國の初に於ては英國人と相對し相互に其情の通ぜざりしよりして交際上に樣々の

不都合を生じ其公使館に浪士輩の襲撃、生麥の事變に英軍艦の渡來、下ノ關の砲撃に償金

の要求等一時は日英の交際友誼も如何ならんと危み懼るゝほどの次第なりしが治にも亂に

も相近づくは相知るの媒介にしく相知るは相親しむの方便となり斯る交際の困難にも拘は

らず英國人の日本に渡來する者は年に月に増加して日本人の之に接することもいよいよ繁

多を致し漸く交情を通ずる其際に我國に於ては政府の一新と共に民情を一新して外國の交

際更に面目を改め爾來二十年の今日に至りては日英の間柄復た前日の比に非ず凡そ日本國

民として英國人の言は之を信じ英國産の物は之を用ひ英學を學び英語を語り英の宗教を信

じ英の衣食を衣食し都も鄙も漸く英風に化せんとするは正に日本國の現状にして我れより

彼れを信ずること厚ければ彼れも亦我れに盡すこと薄からず既に彼の困難なる條約改正の

事に付ても其將に緒に就かんとするは英國の盡力に依るもの多しとの風聞もありかたがた

以て我上流の識者が獨り之を喜ぶのみならず國民一般に彼の厚意に滿足せざるものなし然

るに今回不幸にも同國の汽船ノルマントン號が紀州沖にて破船の際に船客の日本人は二十

幾名一人も殘らず死亡して船の主人たる英國人は皆端船に乘りて上陸したりとのことより

世間一般の物論甚だ穩ならず死者の再生は叶はぬことながら船長以下神戸へ上陸の上は兼

て法律正しき英國の領事廳に於て公明なる裁判して有罪者を罪し以て聊か死者の冤魂を慰

ることならんと待設けたる甲斐もなく領事廳にては事實を糾問したりと稱して一切無罪を

宣告したりければ此報道の四方に達するや否や我全國の民心は恰も狂するが如く如何に勘

辨するも今度の事變はこのまゝに差置き難し領事廳一應の判決は以て事の終局とするに足

らず百方に手段を盡して同胞の爲めに冤を雪がざる可らずとて東西南北に周旋狂奔する其

中に坊主を憎んで袈裟に及ぶの俗諺に違はず昨日までは至近至親と思ひし英國人も今は何

となく之に接して隔意あるが如くなりしは誠に苦々しき次第にこそあれ我輩今日の所望は

唯一日も速かにこの人心の波瀾を鎭靜しての日英の交際を無窮に維持せんとするの一點に

在るのみ

扨この人心の鎭靜策に付き或る老成人の説に數十年來斯くまで平穩に經過したる日本と英

國との交際は僅に難破船死亡云々の小事件の爲めに輕重す可きものにあらず今度の事は今

度限りとして餘り多言せざる方本意なるべし若しも然らずして此事が國交際の問題ともな

りて日英両政府の友誼に影響するが如きありては困る次第ならずやとて只管穩便の處分を

勸告する者あり我輩は飽くまでも此穩便説に同意なれども仮に之れに從はんとするも實際

に其説の行はれざるのみか却てますます不穏の成跡あらんことを恐るゝ者なり今この一件

を領事廳の判決のまゝにして更に問ふことなからんか俗に所謂臭いものに蓋を覆ふに同じ

く民心の不平は蓋に押へられてますます其反動力を増す可きは必然の勢なれば斯る拙なき

策に出るよりも寧ろ男らしく其蓋を發いて鬱氣を洩らすこそ今日の急なるべし本來彼の老

成人は國交際を重んずるの餘りに斯くも立言したることならんなれども畢竟其重きを知る

のみにして之を重んずるの法を知らざる者と云はざるを得ず今我國と英國と交際厚き其際

に彼の汽船が日本人を載せて不幸に逢ひ其始末を處分するが如きは政治上の細事にして船

長其以下に罪あれば罪の通りに刑に處して可なり其處刑に由りて英國の國威を減ずるにも

非ず日本の國權を増すにも非ず唯政治上尋常一樣の事を行ふて以て日本國民の不平を解く

可きのみ之を喩へば両大家の懇親近密なる其内に両家一二の家人の間に何か些少の葛藤を

生じ其葛藤の落着意の如くならずして家内全体の氣敗を損するに異ならず既に葛藤とあれ

ば其始末に就ては當局者に苦痛の者もあらんなれども一二者の身の爲に家と家との懇親交

誼は易ゆ可らず左ればノルマントン號の船長以下も之を再審し又三審しいよいよ有罪と定

まるに於ては忍んで之を至當の刑に處し以て英國法律の公明なる實を明にするは我日本國

民の滿足のみならず亦以て英國の名譽なる可きに故さらに之を曖昧に附して姑息の間に両

國の交誼を全ふせんとするが如きは即ち是れ國交際の重きを知て之を重んずるの法を知ら

ざる者なり我輩は前節にも云へる如く日英の交際今日の如くなりしを喜ぶ者なり之を喜び

之を重んずること甚しきが故に其間に曖昧の跡を遺すを欲せざるものなり昨日の紙上に記

したる電報の趣に從へば兵庫縣知事は英領事へ掛合の末遂に船長ドレークを再審する事と

なりて昨日(十五日)領事廳にて裁判を開く筈にて船長は既に拘留されたるよしなれば今

後の成行を案ずるに英國外交官の筋にても日英交際の重大と今度の事件の輕小とを比較し

て公明正大、大英國の名に愧ぢざるの處分ある可きは我輩の深く信じて疑はざる所なり