「國の面目を重んずる人の注目すべきはノルマントン號の外にも其事あり」
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本文
國の面目を重んずる人の注目すべきはノルマントン號の外にも其事あり
佐・1915字
今回英船ノルマントン號が紀州大嶋近海にて難破の時船長以下廿餘名の船員は一人の過ち
て水に落ちたる者を除くの外皆無事に端船に移りて助命を得たるに獨り船客の日本人廿餘
名に限り本船に在りたるまゝ船と共に海底に沈みて一人の助命したる者なかりし事も餘り
に不思議なる出來事にしてこれを聞く者内外人の別なく皆其心に不快の感を覺へざるはな
かりし然れども初めこれを聞て俄かに人心激昂の有樣を見ざりし所以は當時船長以下船員
一同神戸の英國領事廳にて審問を受くるの最中なれば追て船長以下は嚴しく同領事廳の責
罰を蒙ることならんと毫も其間に疑を挾まざりしが爲めならん然るに同領事廳の判決は衆
人の意外に出て船長以下の所爲には毫も間然する所なし唯廿餘名の日本人は無知頑陋人の
救助せんとするを肯んぜずして自から紀海の藻屑と化したること憐れむべきなりと公言し
て船長以下皆無罪放免と爲りしを見て人々はじめて悲憤の色を顯はしさては今日の如く全
國の人心動搖して未だ其底止する所を知らざるものならん盖し人々の心中を察するに廿餘
名の不幸の死を哀れむの心の切なるは則ち切なるに相違なしといへども他に又一層切なる
は國の面目を思ふの心なるべきや甚だ明白なるが如し古來日本人は武斷專制の下に屈状し
て言行の自由を得ず我憤を訴へず我喜を表せず柔和忍辱以て人に接し唯竊かに我好惡する
所を腹議するの習慣なりしが此習慣は内國の治安に關して俄かに差支へを見ざるやうなれ
ども外國との交際に當ては忽ち非常の故障を爲し柔和は卑屈と思はれ面のあたり人に向て
喜怒哀楽の情を表せざるは無感覺の痴漢なりと認定せられ爲めに常に侮慢凌辱を蒙るの不
利益勝げて云ふべからず即ち人の己れを敬重せんことを欲せば己れ先づ自から我身を敬重
し亦其自から敬重する所以を人に示さゞるべからずとの訓誨を實驗上に習ひ得たるものに
して斯くして以て日本人も漸く前日の非を悟りさては今回ノルマントン號の事件をも一の
好機會として直ちに我思ふ所を筆舌に言はせ又行爲に示したるものなるべし
果して我日本人にして國の面目を思ひ平常これを愛護して人に後れを取らざることの必要
なるを感じ又其感情を人に示すの好機あらば細大漏らさずこれを捕へて毎度自から利する
ことの甚だ大切なるを合點せんには今の人事の多端なる外國交際の頻繁なる日々時々細大
の好機運の如くにして一々これを利用するの日も亦足らざる程なるべし先づ差當り目前の
事に付て申せば彼の長崎事件の如き無論其一に數ふべきものなるや明白なり讀者も記臆せ
らるゝ如く長崎事件と申すは本年八月十三日及び十五日の両夜長崎の市中に於て當時同港
碇泊の支那軍艦數艘の水兵が元とはといへば酔狂の小事件より大事を企て夜陰に乘じて市
中に亂暴し警察署を襲撃せんとして一方は支那水平一方は日本巡査長崎市民との間に一大
爭鬪を惹起し双方を合して殆んど百名に近き程の死傷者を生じたる一事をいふなり爾来此
の事件は日支両國官吏の談判に上り其手續等は種々變化の後今は遂に両國の委員會てふも
のを開き日本方は長崎縣知事日下義雄、外務省取調局長鳩山和夫、同省法律顧問デニソン
の三氏支那方は理事蔡軒、參賛官楊樞、代言人ドラモンドの三氏が長崎に會同して當時の
事實を調査し開會既に四十回の多きに及べども未だ其事を了らず近日の報道に依れば右委
員會も何か不調和の事ありて會務を中止したりとかいへり其事情は固より我輩の詳知せざ
る所なれども兎に角に此委員會の數箇月に亘りて事の甚だ長引くさへ人々の共に憾とする
所なりしに今又遂に中止したりと聞ては爲めに大に其感情を傷めざらんとするも得べから
ざるの事情あらん盖し此長崎事件に關しては當初より既に輿論の定まるあり我輩の如きも
其以來毎度意見を吐露して曲全たく支那水兵に在りて日本巡査及び長崎市民に在らず支那
人の口實とする水兵の死傷は巡査市民よりも多し水兵の疵所は多くは背部に在り十五日騒
動の當夜長崎警察官が騒動半ばにして臨機に艀舟の徃來を差止めたる事の如きは少しも水
兵の無罪を證するに足らざるの理由を論じ却て両國委員會が事實を調査するに何の面倒あ
りて斯く遲延するやを疑ふばかりなりしなり今や此委員會も中止したりといへば其目的と
する所の事實の調査は遂に何れの日月にまで延引すべきや知るべからず甚だ痛心の事なり
とは云へ事体固より甚だ大切にして永久に延引せしむるを得べき性質のものにあらざれば
早晩事實の調査も了り公然明白に此非難すべき長崎事件に付き其曲直の在る所を世界に告
示するの時節あるは必定にして苟くも國の面目を思ふ人々の刮目注意すべき事柄なるべし