「長崎の事變忘る可らず」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「長崎の事變忘る可らず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

長崎の事變忘る可らず

國の面目を重んずる人の注目す可きはノルマントン號の外にも其事ありとて本年八月中旬

長崎の事變も國交際上に甚だ大切なるものなりとの次第をば前號の紙上に記したりしが抑

もこの事變に付き當時新聞紙上の報道は發端即刻電信を以てして次て郵便の詳報次て再報

次て餘聞等到來のまにまにに記載せしことなれば紀事其要を得ず前後重複錯雜して讀者諸

君の記臆も如何やと思ひ今こゝに念の爲め公文の正しきものを記して諸君の再覽に供せん

とす明治十九年八月十四日附を以て同年同月十三日清國水兵の暴行に付長崎始審裁判所檢

事より清國領事へ送附したる求刑書並に負傷者の診斷書と稱するものに

以書函致啓上候陳者我暦本年本月十三日午後第八時三十分頃長崎區寄合町貸座敷營業中村

新三郎宅に於て貴國軍艦水手王發なる者外四名暴行を爲し器物を毀棄したる現行犯を戸主

の求めに依て知り長崎警察署丸山派出所巡査黒川小四郎は現塲に臨み之れを制止するも肯

せざるを以て其姓名を取糺さんが爲め之れを引致せんとする折柄彼等其家を立去り再ひ多

人の貴國水兵と共に我國の刀劔を携へ丸山派出所外に群集し來り其の先に重立て暴行せし

王發あるを巡査黒川小四郎に於て認め之れを引致せんとするに當り彼れ携ふ處の刀を揮ひ

巡査黒川小四郎の前額部を破傷し又一刀を前額部に加へ重傷を爲し殆んと身命を危ふせし

めたる事件別紙長崎警察署より送致せし文書中警察官の作りたる犯罪の塲所二箇所の檢證

調書現塲に臨みたる巡査森利彦西藤作嶋内義晃の上申書見證人中村萬吉山本儀三郎今道武

八、川口宇三郎の證言被害者巡査黒川小四郎及ひ中村新三郎の陳述長崎病院醫師の爲たる

被害者創傷の診斷書古屋新藏が水手に刀を賣渡したる手續書及び現塲に於て押収したる王

發が使用せし刀血痕ある巡査の着服及び毀損せし襖煙草盆竹床等の現在に因て證憑明確な

り則ち暴行して器物を毀棄せし犯人は王發外氏名不分なる水手四名にして人を創傷せし犯

人は王發なりとす依て王發は勿論其他氏名不分の者をも巖重御審理を遂けられ相當の御處

分相成度此段得貴意候敬具

副啓器物毀棄の被害者中村新三郎より損害要償の私訴申上候條併せて相當の御處分相成度

企望致候又本案事實の證明に關する條件の取調中に係るものあり隨て得れは隨て可及御送

附此段申副候也

 明治十九年八月十六日

   長崎駐紮清國理事蔡軒貴下 

     診断書     巡査黒川小四郎

                 二十三年

右は体質〓壯曾て疾患に罹りしことなし明治十九年八月十三日午後九時半頃長崎區寄合町

或る妓樓に於て支那國兵艦兵士の爲め刄創を蒙りしと云ふ依て之を檢するに

一前頭右結節部に於て深さ骨に達する切傷ありて長さ大約四センチメートル

一前頭骨三角板部の稍々右側に偏し卵圓形の辨創巾大約三センチメートル長さ五センチメ

ートル許深さ骨に達し其一部を剥離す

一右手の手掌面に於て二個の擦過傷あり

前記の創傷は鋭利なる刀劍の切傷なること疑なし但單純の切傷は速に治癒すべきものなれ

とも辨創及ひ骨傷は治癒最も緩慢なり加之に皮膚と共に骨の一片を切離するに依り適當の

醫治を加ふるも日數大約五週間を經過するに非れば治癒し難きものとす盖し癒後瘢痕の収

縮に依り顔面の醜態を遺すものと及診斷候也

 明治十九年八月十四日  長崎病院治療掛某印

     診斷書

          清國水兵 王 發 廿五年

體質強壯曾て痘瘡に罹りたる瘢痕を殘すの外平素疾患の徴候なし明治十九年八月十三日夜

長崎市街通行の際負傷せしと

一右の手背第二中骨下端部に拇指頭大の辨創示指第一關節に達し軟骨の細片を切離す

一右前頭結節の上外方に斜形の挫創皮膚を破て筋肉に達す長さ大約一寸計

右の創傷就中前頭部は鈍体に抵觸し手背部は刄尖に依り負傷したる者なること疑なし但手

背部は關節炎を誘起するの恐れあり然れとも經過善良なる時は日數大約二週間にして治癒

すへき者と診斷候也

 明治十九年八月十四日  長崎病院治癒係某印

とあり又同年同月二十四日附を以て長崎控訴院檢事長より同月十五日の水兵暴行一件に付

き清國領事へ送りたる求刑書と稱するものには

以書東致啓上候陳者我暦明治十九年八月十五日當長崎港碇泊貴國兵船四艘の乘組士官水兵

無數上陸し午後六時の頃に至り我巡査坂本半四郎が貴國人民居留地廣馬塲巡邏中其水兵の

内一名突然肩を張て坂本半四郎の胸部を劇突したるも坂本半四郎は人民保護の職にあるを

以て敢て其非を問はざりしに再び其水兵は携ふる所の洋製小刀を坂本半四郎の面前に閃め

かし將に害を加へんとする形容を示し侮辱したるも耐忍し居たりその后又貴國水兵の一人

同所に在りし巡査河村健太郎に對しても粗同一の所業を以て凌辱を加へたれども是亦不問

に附したりと雖ども要するに貴國水兵の擧動不穩なるのみならず群集雜沓平日に異なるの

状况あるを以て特に巡査福本富三郎黒田雲章を廣馬塲町に派遣し續て午後八時定規交代と

して巡査喜多村香派出したるにより坂本半四郎河村健太郎は廣馬塲町を去りて梅香崎警察

署に歸りたり巡査福本黒田喜多村の三名は交代間もなく廣馬塲町を巡邏視察中居留貴國人

民の一人突然福本富三郎喜多村香の携帯せる警棒を取らんとし且手を以て面部を撫せらる

るも敢て意となさす數歩これを避くるや再び右居留貴國人民福本富三郎の道を遮り福本富

三郎が携帯せる警棒に手を掛けまた居留貴國人民の一人は福本富三郎の後に在りてこれに

加勢し共にこれを強取せんとするを振拂ふや恰も符節を合すか如く貴國水兵五六十名貴國

人民の家屋より突出し三名の巡査を圍繞し携ふる所の刀劔棍棒を以て亂撃或は瓦石を投じ

遂に福本富三郎を殺害し喜多村香に重傷を負はしめために絶倒して人事を辨ぜざるに至ら

しむ黒田雲章も負傷辛ふして危難を脱し警察署に歸り報ずるを得たるものなり梅香崎警察

署においてはこの警報を得直ちに詰合の警部巡査若干名を繰出したる所最早百數十名の貴

國水兵廣馬塲町に蟻集し種々の利器を携へ現に黒福を着したる士官体の者抜刀率先我警吏

に向ひ撃進で梅香崎警察署の門前まで襲來したる勢猖獗にして他に防止するの道なきを以

て警部巡査は職務上携ふる所の洋刀警棒を以て之を防ぎ廣馬塲町と警察署の間を互に進退

漸く午後十時過ぎ鎭靜するに到りこの際貴國水兵士卒のために即死負傷せし人名左の如し

(即死)巡査福本富三郎(負傷)警部補松崎惟氏、警部補吉田嘉一郎、巡査宮崎素、仝菅

政治、仝柴田國太郎、仝黒田實章、仝岸川蔦吉郎、仝喜多村香、仝山池信清、仝神吉繁次

郎、木下才吉、仝宮津吾八、仝船瀬猿太郎、仝江口嘉次郎、仝棈松高義、仝坂本半四郎、

仝小見川直彦、仝水足庄五郎、仝前田岩次郎、仝牧藤太郎、警察署水手渡邊鶴之助、梅香

崎警察署衙役浜田重松、仝谷山榮吉

又長崎警察署に於ては貴國水兵暴行の報を聞き鎭撫應援を令す巡査森利彦直ちに人力車に

駕し船大工町に向て馳せ思切橋を通過するやその塲に填塞する數十名の貴國水兵は群起し

て森利彦を亂撃し引落して至重の刺傷を加へ因て終に死に至らしめ尚ほ來援する數名の巡

査を要撃し更に丸山口より貴國水兵數十名馳せ來り勢を合せて暴行愈劇しく巡査は概ね傷

を被り危害切迫止むを得ず佩劔を抜き警棒を揮ひ進退相應し百方拒鬪して稍々貴國水兵灣

亂し茲に至て鎭靜するを得たりこの際負傷せるものゝ姓名左の如し

(負傷の爲め死亡)巡査森利彦、(負傷)仝西藤作、仝大財精一、仝坂部猛温、仝東平格

抑貴國兵船士官水兵が斯く暴行をなすや偶然にあらず曩きに丸山町青樓に於て貴國兵船定

遠號の水手暴行をなし我巡査を傷けたるを以て貴國水手王發なるものを引致し直ちに貴理

事府に交付せしに基因し貴國兵船士官水手等の内宿意を挾み豫め共謀し以て警察及び巡査

に對し暴行を企て茲に及びたるものとす何となれば廣馬塲の巡査に對し侮辱を加ふること

數回爭鬪を挑發せんと試み居留貴國人民体のもの故なく巡査の携棒に手を掛くるや響の應

ずる如く忽ち數十名の水兵一時に蜂起しまた船大工町に於ても相應じて數十名の貴國水兵

同時に暴發し巡査を殺傷するが如き豫め牒謀するにあらずんばなし得べきことにあらざれ

ばなりまた曩きに引致交付せし王發と同船なる定遠號士官水兵に負傷者の多きと現塲に於

て得たる帽子に同船の記名多きを以てこれを事實に照すも定遠號の士官水兵の宿意より出

たるものと認むるを得べし右犯罪の證憑は別紙目録に記載せし書類の通ふ有之其犯人は貴

國兵船士官水兵の負傷者及び現塲に於て押収せし帽子に記名ある九名は勿論其他姓名不知

者貴國兵船乘組員中若干名可有之と信じ候條御嚴査を遂げられ嚴重の御處分相成度及請求

候此段得貴意候敬具

 明治十九年八月廿四日

        長崎控訴院檢事長 林  誠一

      清國領事蔡軒貴下

とあり長崎より到來の私報又は實地を目撃したる人々の物語りは樣々にして實に甚だしき

亂暴なれど訛〓もあらんことを恐れて今これを略し單に政府の筋の求刑書のみに就て事の

始末を見ても水兵の暴擧は事實を掩ふ可らず然るに如何なる譯けにや爾來の談判は以前に

替はりて日本支那の委員會となり近日は其委員會も中止など云ふ風聞ありて中々手間取る

可き樣子なれども我輩を以て見れば仮令へ求刑が變じて委員會と爲り實地取調べと爲るも

出來し事は既に出來て之を動かす可らず明治十九年八月十三日同十五日に出來し事の實は

前節に記したる公文の通り厘毫も相違なきことにして何れの道より詮索推究するも他に發

見す可きものあらざれば詰り支那水兵の暴發は其暴發者の罪に相違なきが故に當時その災

に罹りたる我同胞日本人の死者の爲めには其冤魂を慰め生者の爲めには滿足を得せしむる

こと遠きにあらざる可し我輩は最初より此長崎事件に就ては政府の頴敏なる政略上に妨害

もあらんかと之を憚り謹で多言したることなし只管我政府を信じて之に頼み切つたるもの

なれば何れの道にしても彼の初發に承はりたる求刑書の精神丈けは必ず貫徹す可しと安心

して曾て一毫の疑を抱かず天下公衆と共にノルマントンの一條に兼て長崎事變の結末に就

ては目を離さずして之に注意する者なり