「學校用教科書」
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時事新報に掲載された「學校用教科書」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
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學校用教科書
學校用教科書
近來文部教育の部分に接を爲すものあり學校用教科書の總べての書籍中最も其撰を重んず
可き筈なるに從來其編輯を一個人私人の手に任じたるが爲め其中鹵莽取るに足らざるもの
なきに非ず因ては自今教科書の編輯は一切之を文部省編輯局に引き纏め局の全力を注で良
教科書を精撰すべし云々と主張せし由なるが結局文部の筋に於ては著述編輯に官民公私を
區別する筈なければ教科書は一般人の自由に編輯するに任せ其學校用に適するや否は文部
省檢定官の檢査に由て之を定むることとなし編輯に衆知を要し將た許多の材料を要して一
個私人の容易に手を下す能はざるものは文部省の手を以て之を編輯するやうの運びに至り
たりと云ふ甚だ穩當なる處量なるが如し又今回文部教育の部分にて右等の評定あるに際し
廣く良教科書を得る其奬勵方として懸賞の法を採用しては如何との説もありて遂に之を採
用するに决したりと云ふ扨て此懸賞法は如何なる手續を以て施行せんとするにや文部省は
近來世上に流行する彼の點取文の法に傚ひ例へば今般學校用歴史或は地理書の最も適當な
るものを要するに就き恰好の書を編輯したるものには何千何百圓の賞金を與ふ可し云々の
旨を告示するの見込なるや我輩未だ其邊の詳細を聞かずと雖ども懸賞法を以て廣く良教科
書を得んと欲せば其懸賞を一時一教科書に限らず何人の編輯、何種の教科書を問はず文部
省にて檢定の上果して最良の教科書ならんには一は編輯者の勞を慰め一は世上其向きの人
の奬勵の爲めに相當の賞を與ふ可きなり先年の事なり學士會院にて世に良著譯書の出づる
を促がす爲め世人一般の著譯書を檢定して其良否を品第し中に就て其最も優等なるものを
褒賞しては如何との説あり當時我輩は其〓を嘉せざるには非ざれども廣き世間一般の書籍
を檢定するには其煩勞中々容易ならざる可しと信じたるが故に敢て之を賛成する能はざり
しが學校用教科書の如きは兎に角一應文部檢定官の檢査を經べきものなれば檢定官の目を
以て其良否精粗を見分け其中最良の者を賞するは敢て難事に非ざるべし斯くて臨時一教科
書に懸賞するに引き替へ苟も良教科書を編輯するものは何時にても其功勞に酬ゆるものあ
りとすれば間斷なく教科書編輯者を奬勵するの姿にて廣く良教科書の出づるを促す可きな
り文部教育の向きの人は果して我輩と同見なりや否
學問の重きに官私の別なし
今般勅令第七十三號を以て去る明治十六年十二月に布告したる徴兵令幾箇条を改正追加し
たる其中に文部大臣に於て官立府縣立學校と同等と認めたる學校は徴兵令に對して之と同
樣の特典を得との追加あり左すれば今後文部大臣が官立府縣立學校と同等なりと認むるに
於ては從令ひ私立學校にても徴集猶豫其他の特典に與かることならん元來官立府縣立學校
に右等の特典を與へたるは國家學問を重んずるの深意なる可きに其特典の之れと同等の公
私立學校に及ばざりしは學問の重きに官私を區別するものにして事の公平なるものとは云
ふ可らざるが如し且つ今日の實際に於て丁年近き學生中實は某私立學校に入りたきの心願
なれども其身分年齢を顧みて枉げて官立府縣立學校に入るものあり或は家に許多の資産あ
りて追ては其所得の學力を以て之を利用すべきの地位に立ちながら一時の窮策に師範學校
に入りて幾年間小學教員たるの責任を負ふが如きものもなきに非ず國家學問を重んずるの
精神より見れば甚だ遺憾なる事共なり、日本全國官立府県立學校を押しなべて一樣平等其
特典を一般に及ぼさゞる可らず然るに今や右の追加あるに逢ひ官立府縣立學校と同等なる
私立學校の學生は今後安んじて其學業を修むることを得、名正しく事順に國家學問を重ん
ずるの精神は官私一般に貫徹して世間幾多の學生輩も枉げて其學問の方向を誤るが如きこ
となかる可し我輩の甚だ喜ぶ所なり