「ノルマントン號事件裁判落着」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「ノルマントン號事件裁判落着」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

ノルマントン號事件裁判落着

前の英國汽船ノルマントン(Normanton)號の船長ジヨン ウ井リヤム ドレーク(John

William Drake)氏は一昨八日横濱英國領事裁判所に於て己れの職務を怠り日本人二十五名

を殺したるものなりと判定せられ三箇月の禁錮に處せられたりさて此ノルマントン號が本

年十月二十四日を以て紀州熊野沖に沈沒するに當り乘組の西洋船員は船長はじめ無事に助

命するを得たるにも拘はらず船客の日本人二十五名は何等の事情ありてか一人も助命する

者なく老幼男女數を盡して非業の死を遂げたりとの事世上の評判に上るに至り人々皆爲め

に悲憤の情を催さざるはなく此際神戸の英國領事廳海事審廷に於て同船長以下を審問して

熊野沖難船の一條に關し同船長は十分に船長たるの職務を盡したるものにして當時の處置

毫も間然すべき所なしと判决したるより一層世人の感情を強くし日本政府は英國領事裁判

所に向て同船長が殺人罪の訴を起し日本人民?(並)に日本在留の英國人民及び他の國人

は溺死者の遺族の爲めに義捐金を募り宗教者は法會を營み論客は演説會を催し新聞紙は縦

横自在に論辨する等實に日本社會近來の一大事件たる性質を成すに至りたり盖し世人が斯

くまで切なる感情を惹起したる其主因とすべきものは必ずしも廿五人の非業の死を憐れむ

のみにもあらず又船長ドレーク氏の所業を不埒なりと爲し飽くまで此男を懲罰して腹〓

(いせ)すべしといふ譯にもあらず唯兎角常に西洋人に軽侮せられて同等の人類視せられ

ざる日本三千餘萬人の鬱憤が偶ま發してノルマントン號事件の騒動を成したるものならん

のみ果して然りとすれば演説なり法會なり義捐金なり訴訟なり既に我意思の如何を公示す

るの用を達したる以上は強ち其外の事を問ふべきにあらず訴訟の勝敗の如き固より此事件

の眼目とする所にあらずといへども然れども英國の法律に於てはノルマントン號船長の爲

したる如き處置を見て船長に適當の處置くにして間然する所なしと爲すや否や又船長の同

國人たる陪審役の眼にては斯る類の所業を有罪と見るや將た見ざるや其如何を聞知するは

誠に大切の事柄なるがゆゑに横濱英國領事廳の今回の裁判は决して輕視すべきものにあら

ず則ち此判决の如何によりて人心に殘す感情の如何も亦大に左右せらるべきものなればな

り然るに幸にも今回の裁判は開廷僅かに二日間にして忽ち船長ドレーク氏の所業を有罪と

認め判事は三月の禁錮を以てこれを罰したり我輩はこれを見て満足せざるを得ざるなり然

れども多数の日本人中或は此裁判を見て尚ほ其不當を云ふ者もあらん何となれば日本人は

從來禁錮などの罰には見慣れ聞き慣れて格別に驚くことなく例へば戸長巡査などに對して

何か失言したる者あれば刑法何條官吏の職務に對し侮辱したるの罪に當るものなりとて〓

禁錮一月以上一年以下罰金五圓以上五十圓以下に處せられ或は新聞記者が一新聞紙の停止

中他の新聞紙を發行すれば六月以上三年以下の輕禁錮廿圓以上二百圓以下の罰金又は傍聽

を禁じたる官廳及び府縣の議事を詳畧に拘はらず新聞紙に記載すれば二月以上二年以下の

輕禁錮三十圓以上三百圓以下の罰金に處せらるゝなどとて隨分禁錮の沙汰は世に澤山なる

ものなるが故に今回の事の如き廿五名の殺人罪なれば今少し嚴重なる罰を申付べき筈なり

三月の禁錮にては甚だ不足なりと思はんも日本人の考として一應尤もの事なればなり併し

ながら斯る論者は先づよく内外の區別を明かにし今回の事は英國の法律を以て英國人を罰

するものにして日本の法律には無關係の事たる譯を知らざるべからず則ち英國の法廷に於

て英國の判事が英國の法律を按じて英國の罪人を罰したるものにして其處置の公明正大に

して法律適用の正しきは無論の事にして敢て我々の疑を容るべき限りにあらざるなり故に

我輩は此裁判に對して唯我輩の満足を表するより外の事を知らざるのみ殊に最も我輩を滿

足せしめたるは裁判落着の迅速なる一點なり仮りに今回の事をして支那の汽船ならしめば

事の始末果して如何なるべきや支那領事廳に起訴して果して受理せらるべきや受理せられ

て果して裁判せらるべきや裁判せられて果して有罪と申渡さるべきや如何甚だ疑はしき次

第ならん或は今頃は委員会の議論解散位の事にて永遠落着の期を知らざるやも測るべから

ざるなりこれを思へば今回英國領事裁判所の始末の如き流石は文明國の法廷なり實に文明

の裁判法に背かざるものなりと〓ろに人をして感嘆滿足せしめざるを得ざるものなるべし