「官廳公務の取扱を商賣風にする事」
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本文
官廳公務の取扱を商賣風にする事
過般米國より歸來したる或人に面會して樣々談話の其中に近來彼の政府にて大統領クリヴ
ランド氏の意見に諸官廳事務取扱の方法を商用の風に改めんとて專ら其主義を勸告奬勵す
るとの言あり盖し同國の政務は從前とても簡易を主として諸役所の公用に餘計に手數もな
く餘計の官員もなく日本人抔が日本の公務取扱の風を見慣れたる目を以て見れば米國の官
廳は常に淋しくして日本官廳の日曜日の如しとは我輩が曾て聞得たる處なるに今大統領の
意見にては尚ほ之をも足れりとせずして改良を企つるとは扨々愉快なる事にこそあれ本來
政治なるものゝ性質を尋ねれば奇なるに非ず〓なるにあらず唯是れ人事の一部分にして其
一國公共の便利のために法律を設け規則を定め内は國民の秩序安寧を保護し外は外國に公
の交際して國交の榮譽を維持するの仕事より外ならず此仕事を司る處を政府と名づけ其政
府に在て事を執る人を官員と云ふ其有樣を平たく云へば一商社に規則定かん(疑の左に欠)
を設けて商業を營み内は社員の安心を得せしめ外は諸方に取引し以て社の体面維持して暖
簾を汚かすことなからんとするものに異ならず此仕事を取扱ふ塲所を商店と云ひ其商店に
勤務する人を社の役員と云ふまでの事なれば商賣奇ならず又〓ならず商店商人共に特別の
尊巖あるに非ず唯其目的は成る丈け内の手數を少なくして費用を省き外に向ふ働をば活溌
(さんずいに發)にして所得を多くせんとするに在るのみ左れば國の政治の性質も正しく
商賣同樣のものにして其目的とする所も亦費用を省ひて仕事を活溌(さんずいに發)にす
るの外に在る可らず米國大統領の意見も此邊より發したるものなる可し例へば商用に最も
貴び最も愛しむ所のものは時刻と手間と此二者にして二者の得失は正しく金錢の損得を同
樣に計算するものなれば等しく金を借用するにも其金主の〓法徒らに鄭重にして金談の發
端より其現金の受渡しに至る迄樣々の手數して時刻を失ふが如きあれば利足の割合の低き
にも拘らず斯る〓には到らずして少々高利にても他に求めて手輕に借用するは商人の常な
り金を借用するに先づ願書を差出し金主よりの呼出しに應じて出頭、聞屆の指令書を受け
取り追て重ねて呼出しの上にて現金をわたすに至るまで願書は本書副書扣書等三通も五通
も定式の用紙に同樣の文を認めて一句を誤れば其意味の如何に拘はらず却下せられ呼出し
に應じて出頭する毎に金主の玄關に待つこと何時間なるを知る可らず幸にして現金を請取
り利拂には毎月末、主人自ら出頭する等その取引の細事件に至るまでも明何日何時出頭せ
よなどと云はるゝが如き金主あらば假令へ其金は無利息にても借用するものなかる可し如
何となれば商人の時刻と手間とは黄金に均しきものなればなり商人社會は實際の要用に迫
まられて金の貸借に斯る奇談あるを聞かざれども今日我國官邊の公用取扱に於ては往々鄭
重なるもの少なからざるが如し諸官廳の内部にて相互に書凾の徃復、見留の小印等隨分忙
かしくして古書累々日ならずして山を成す其一片紙一小印も皆是れ人の勞力にして此勞力
を呈するが爲め官員を要し其官員を養ふが爲めに國庫の金を費すことなれば一年三百六十
日廳中に堆くして遂に文庫の棚に上る要書も廢紙も片々皆是れ黄金白銀の碎片として見る
可きものなり然り而して此金銀と此紙片とを交易して果して其價の相當なるもの歟、我輩
は民間に居て之を知らず假令へ之を知るも言ふ可き事柄にあらざれば廳中の損得は姑く擱
き爰に官の筋より人民に直接して人民の時刻と手間とに關係するものあれば此一條に就て
は聊か其筋の注意を望まざるを得ず例へば人民死生の屆け寄留旅行雇人の出入所有の馬に
牛に車に舟に凡そ税に關し又衛生統計に要用なる箇條に付き願屆又は役所よりの問に答ふ
る其度毎に人民の筆勞足勞は决して容易なるものに非ず其中には定式として同文言の書を
二通にも三通にも認めて差出すあり其三通も餘義なき次第なれば餘義なしとするも書中僅
に一句を誤る時は其意味の通不通に論なく三通共に改めざるを得ず或人小兒を喪ふて其死
亡屆より埋葬の手數に至るまで或る區役所が郡役所に書面を差出し其式に叶わざるが爲め
一日六度書を改めて始めて寺に葬るを得たる者ありと云ふ人生の時刻と手間が黄金に等し
きものとあれば誠に堪え難き次第にこそあれ何か商賣風に考へたらば今少しく簡易輕便の
仕方もなきに非ざる可し官廳の筋にては人民に向て一寸これを呼出し、これを待たせ、一
寸願屆書を出さしめ一寸間違ひあれば一寸認め替えを命ずるなど誠に容易の事にしてこれ
しきの手數を夫れ是れと論ずるにも足らずなど思ふ可けれども其一寸なるものを集めて幾
千一寸幾萬一寸に積むときは總計の時刻と手間とは實に重大至極のものなるべし例へば今
回内務省より第十九號の令を發して出生死去出入寄留者屆方の法を定め當十二月一日より
施行と聞いて人民の狼狽一方ならず何は扨置き省令第九條に云々する者は二十錢以上一圓
二十五錢以下の科料に處すとあれば是れは容易ならぬ事なりとて現在我輩の目撃する所に
ても東京府下各區役所の門前毎日人民の群集黒山の如くにして上を下への混雜は目覺まし
き事共なり仮に本月一日以來一區役所に集る人數を終日平均三百人として一人の手間を十
五錢と定るときは一日の損亡は四十五圓にして十日までに四百五十圓に上る可し之を東京
府下の各區各郡より他府縣に通算したらば此十日中に全國人民の失ふ所は容易なるものに
あらずして郡區役所の事務即ち役人の時刻と手間と又官民双方に費す所の筆紙墨の價も
中々大造なる金高ならん我輩は固より戸籍上の事を重んぜざるにはあらざれども此區役所
の雜沓を見ては又驚かざるを得ず官廳の筋にても兼て其邊には覺悟して最上の手段を施し
たることならんと雖ども都て公用事務の取扱を商賣風に改革して緩急の呼吸を旨くしたら
ば尚ほ一層の簡便法もあるべしと竊に望む所なきに非ず内務省令の事は本論の眼目にあら
ざれども數日來毎度區役所の門前を通行の際其群集混雜を見て思ひ當ることもありしが故
に序ながら紙末に之を記して當局者の考案に供するものなり