「人事のあらん限りは商賣もあり」
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本文
人事のあらん限りは商賣もあり
日本の商賣は數年の間不景氣の淵の底に沈みて活はつ(さんずいに發)生々の氣力を失ひ
殆んど全國一齋に喪に居るの有樣なりしが去年以來生糸相塲の騰貴して外の刺衝の強きが
ために内の金融も少しく面目を改めて或は景氣回復の端緒にてもやあらんと思はるゝまで
なりしが折柄不幸にも本年の夏に入りて全國コレラ病流行の大騒動に人々病氣の豫防等に
忙はしくして商賣を顧みるに遑あらず全國の市塲一時は火の消えたるが如き有樣さへあり
し然るに近來漸く流行病も消滅し白露早くも霜と爲りて世人の支体も大に引締り是より漸
く景氣回復の端を開くならんと待つは永くして來るは遲く今日に至るまで我輩が未だ景氣
回復せりとの吉報を世人に告知らすること能はざるは遺恨至極の事といふべきなり不景氣
の來るや一人の罪にあらず不景氣の去るや亦一人の手柄にあらず世の景氣不景氣は固より
一個人の其責に任ずべき限りにあらずといへども若し全國幾千萬の人個々皆吾れこそ此責
に任ずべきものなれと覺悟して油斷することなからんには今の不景氣も存外に其根深から
ずして忽ちに衆力の抜去る所たるべきや敢て疑を容るべからざるが如し然るに世人一般何
の心にてか直接に我商賣に關係ある不景氣を見ること對岸の火事の如くして心を留むるこ
と深切ならず天氣の陰晴の如くして我力の左右し得べきものにあらずと爲し唯口に不景氣
を喋々して身に不景氣に應ずるの行を勉めざるは残念至極の事といふべし世の資本家皆曰
く數年以來商賣社會の状態を察するに决して尋常健康のものと申すべからず新たに業を起
す者又は新たに商賣を擴張する者の必ず損毛を招くは勿論從前のまゝに商賣を維持する者
にても一人として損を蒙らざる者なし唯損毛を蒙ることの最も少なき者は從前の商賣を半
減にし又四半減にし其の申譯の爲めばかりに纔かに一縷の商〓を存し置て實地の商略は斷
然閑居坐食と定め終年唯金箱の傍に侍べりて一事を爲さゞりし者より外ならず實に商賣社
會の不健康其極度に達したるものといはざる可らず斯る恐ろしき社會と知りつゝ無法に事
を企つるは智者の事にあらず損毛を顧みずして商賣の擴張を希望するは商人の道にあらず
商人の名譽は錢を守て失はざるに在り萬一の危險を冐かして確かならざる利益に眼を眩ま
し萬一の失策に確實なる資本を消亡するが如きは愚の極といふべきのみとて只管退守籠城
の策を講じて耳目を世上の人事に閉ぢ嘗て外物の誘導に應ずることなし是即ち全國資本家
大多数の目下の状態にして衆力の集まる所能く永く不景氣を支持して尚ほ未だ回復の機を
得せしめず國の不幸實にこれより甚だしきはなかるべきなり盖し資本家の退守論固より其
一理なきにはあらず坐上の理論に感服する所あればとて輕卒に實地の商賣に着手して資本
の實物を失ふは商人の甚だ恥る所にして飽くまで用心堅固を旨とすべきこと勿論なりとい
へども又退いて一考せんに今の日本の商賣社會が何程不健康なりといふとも國内三千餘萬
の人々は今も昔も相替らず日夜衣食住して生命を維持し或は生ずる者あり或は死する者あ
り或は冠する者あり或は婚する者ありて人事の運動は一日片時も止むことなきに相違なか
らん加之今の日本は鎖國時代の日本に異にして商賣理財の事これを日本一國の内に限るに
非ず世界到る處の市塲皆我日本の資本を運轉すべき市塲にして商賣界の廣き古今に其比を
見ざるものといふて差支なからん若し果して今日不景氣極まるの日といへども日本三千餘
萬の人々は一日も其衣食住を廢することなく又日本の商賣は世界の商賣と相聯絡して其働
きを自由にする事を得るものなりと申す事如何にも事實に相違なきものなりと定まらんに
は世人を相手にする商人にして此際日本に世界に利を見るべき個の商事なしといふは我輩
の甚だ信ぜざる所にして苟くも眞の商人たる資格を備ふる人にして斯る恠説に惑はさるゝ
の愚人はなかるべし冷熱動靜社會の變状何程に甚しとするとも社會の人事は一日も止むべ
からず人事止まざれば商賣も止む可らず商賣止まざれば資本も亦其用を存すべきや明白な
り資本の用あり乍らこれを用るの法を知らざるは商賣の罪にあらずして恐らくは商人其人
の不明ならん金箱の見張り番を勤むるは必ずしも心身屈強の商人を勞するを要せず埀死の
老爺尚且つ其責に任ずるを得るならん苟くも自から信じて吾れこそ天下の商人なりといふ
人々にして自から甘んじて不明と老爺の地位に退かんとするとは我輩の全く合點すること
能はざる所なり世の資本家たり商人たる人々は宜しく自から省みて自暴自棄遂に大に全國
の不景氣を助長せりとの批評を身に招かざらんことに注意あるべし