「民業の発達を促す可し」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「民業の発達を促す可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

民業の発達を促す可し

我國民間の事業家は心事甚だ卑屈にして何の事業を企つるにも動もすれば政府の保護を乞

ひ一身獨立にするの志操なきものゝ如しとは今日に於て一般人民の偏く信ずる所なり從來

の例を按ずるに荒蕪開墾と云ひ鑛山採掘と云ひ直輸出貿易と云ひ蠶糸業改良と云ふ等苟も

新事業に着手せんとする者は其資本金の出所を民間に求めずして先づ之を其筋の人に謀り

政府の金を拝借して之れに着手するを常としたり斯くて拝借金を以て夫れ夫れの事業に從

事するに當ては人情の自然、其金の拝借金たるを以て幾分か氣の緩む所もありて或は當初

より其規模を擴張し過るか或は其會計法を散漫にするか甚だしきは民間の同業者と競争し

て遂に之を壓倒すると同時に己れも數箇所の重傷を負ふて双方共に斃るゝ抔の例も少なか

らず左れど民間の事業家は初より獨立の業を營んで拝借金の鴆毒を服用す可らざるは勿論、

政府に於ても民間一種特別の事業家に一種特別の愛顧を〓れて之を保護するの念を絶たざ

る可らず即ち我輩の持論にして毎度本紙上にも開陳したる所なれども是れは政府が其金力

を以て特別に一種の事業家を保護するの弊害を説くものにして文明國の諸政府が法律上一

般に民業を保護奬勵することを非としたるに非ざるなり法律上一般に民業を保護するは國

の公共の大事業を發達するに最も大切なる事にして文明諸國の政府は孰れも此方向に向て

注意せざるものなく特に我日本國の如きは民間獨立の事業家に乏しく金あるものは文明の

思想なく文明の思想あるものは起業の資本なく滔々たる天下無志無錢の輩にして民間の事

業は層々目前に堆積するも之れに着手する能はざるの際なれば法律上に於て一般に民業の

發達を促すことは甚だ大切なる可しと信ずるなり

目下我國民間の事業にして至急の着手を要するものは固より一二にして足らざれども至急

中の急とも云ふ可きものは即ち鉄道事業なり但し鉄道事業に就きては歐米諸國夫れ夫れ鉄

道政略なるものありて或は國の鉄道業を擧げて之を民設に歸するものあり或は政府の一手

を以て全國の鐵道を握らんとするものあり其利害に就ても亦自から説なきに非ず而して我

日本政府は果して如何なる鉄道政略を執るか從來の實例を以てすれば日本國中の鉄道は概

ね官設に歸したれども泉州堺の鉄道は純然たる民設にして日本鐵道會社は政府其利子を保

證するとは云へ明に民設鐵道の性質を具へ居るを見れば我政府は一概に鉄道を官設と限り

たるにも非ざるが如し且つ鉄道敷設の急を告ぐる今日の如き時勢にては東海道鉄道と云ひ

信越鉄道と云ひ國を横貫する本線は事業も甚だ大なれば差當り政府の手を煩はす可きもの

として之を擱き此本線を中心として其近傍の都邑を聯接する支線に至ては之を民設に委任

するこそ却て便利なる可けれども我國の鉄道事業は今日尚甚だ幼穉にして人民未だ其利に

慣れず之に着手するに當りて多少疑懼の念を免かれざる折柄なれば政府は民設鐵道を奬勵

するの精神を以て特に民設鉄道條例なるものを設け民間の鉄道事業者に向て成る可く丈け

法律上の保護を與へ世上一般に其方向を示して事業に便利を援くるは今の急要なる可し盖

し民設鐵道を許可する國柄にては此事業者に對して十分の保護を與へざるものなく北米合

衆國にては新に鉄道を敷設するものに向て其沿道の土地を給與するの例なれど鉄道成りて

沿道の地価騰貴すれば事業家は之を他人に賣却し其資本を以て更に新鉄道を敷設すること

を得、次第次第に之を延長することを得るが故に鉄道事業の發達異常にして遂に今日の盛

大を致したるなりと云ふ我國にても近來追々に鉄道の必要を感じ既に九州鉄道の談を聞く

と同時に又両毛鐵道の敷設を計畫するものありて政府に出願の運びに至りたる由に聞く此

等の計畫を手始めとして追ては日本全國各地方到る處に民設鉄道の計畫あること必然なれ

ば我政府は此等の實着なる事業家の爲めに今より民設鉄道條例なるものを設け置き右の事

業家に對して豫め其方向を示し且つは法律上に於て一般に其起業の便利を與ふること今の

民業發達の爲めに最大急要なりと信ずるなり(未完)