「獨逸の東洋政略如何」

last updated: 2019-09-08

このページについて

時事新報に掲載された「獨逸の東洋政略如何」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

獨逸の東洋政略如何

近年獨逸が東洋の貿易市塲に於て著しき勢力を占めたるは隱れなき事柄にて世間に顯はれ

たる最近の事實に由て之を徴するも本年四五月の頃同國のロイド會社がハムボルクより上

海香港間の定期航海を開き其支線を我神戸横濱まで及ぼしたるが如きクルツプ會社が支那

開平の鐵道事業を受負ひたるが如き又イリス商會が我日本鐵道會社と約定して向八個年間

レールの輸入を引受たるが如き何れも其例證にして又近來聞く所によれば朝鮮内地の金鑛

は悉皆獨逸人の手にて探索を遂ぐる筈なりと云ひ露領ウラジオストツクの貿易の如きは近

來全く獨逸人の掌裡に落ち中にも同地なる獨逸のアルベルス商會の如きは廣くサイベリヤ

内地までも手を伸し次第に貿易の區域を擴め同地にある日本支那の商人は素より露西亞の

商人さへも其勢に敵する能はざるほどの次第なりと云ひ又獨逸にては近々海外銀行なるも

のを設立し其本店を伯林若くはハムボルクに置て專ら本國と東洋間との貿易を保護奬勵す

るの計畫ありと云ひ是と云ひ彼と云ひ獨逸が近來頻りに東洋の商賣に鋭意力を用ふるの端

倪を窺ふに足るべきものにして大に我輩東洋人の注意を要すべき事項なりとす我輩は獨逸

が前年佛國との戰爭に勝を制せし以來其勢旭日の東雲を破るが如く歐洲の中原に在ては諸

強國を眼下に睥睨するの威力を有しながら獨り東洋に向ては音もせず臭もせず猛虎その爪

牙を収めて深山の中に蟄伏するの態あるは甚だ怪しむべきに似たれども獨逸國の富強とビ

スマークの雄略を以てして永久東洋の美田を擧て獨り英佛等の蹂躙に任ずるの理あるべか

らざれば早晩必ず東洋に向て其餘勇剰力を試むるの日あらんとの旨を曾て論述したりし事

ありしが其言果して違はず未だ兩三年ならずして明かに其事の端緒を見るの今日に至れり

盖し單に商賣の一方より視るときは英國が東洋の市塲に跋扈するも又獨逸が東洋の貿易を

專有するもその商賣の盛衰に於て異變なき以上は我に於て毫も損益する所なく又利害を感

ずることなかるべしと雖も我輩の此際に於て大に注意を要すべしと云ふ所のものは他にあ

らず從來歐洲諸國が東洋の市塲に入込む次第を視るに商賣と侵略とは常に相伴隨して離れ

ざるを例とするものゝ如し即ち英國が印度及び香港を占領して東洋の商權を專らにし佛國

が安南を併呑して支那内地の通商を謀らんとするが如き其他露國のウラジオストツク地方

に於ける和蘭の爪哇に於ける西班牙の呂宋に於けるが如く歐洲諸國中東洋の商賣上に勢力

を有するものは必ず形勝の地を扼し其處に軍艦を置き兵隊を備へ其根據の地を定めざるも

のなし盖し此の如くせざれば一旦緩急あるの日その商賣と人民とを保護して東洋の商權を

歐洲諸國競爭の間に爭ふ能はざるなり獨り北米合衆國は純然たる商賣國にして東洋の貿易

に於て曾て一點の政略を其間に交へたることなし故に其欧洲との貿易は甚だ隆盛を極むる

に似ず東洋との貿易に至ては常に依微振はざるの勢あり或は之を以て米國の商民及び製造

家が不活溌にして勇を東洋の貿易に試みざるに歸するものありと雖ども我輩の見る所を以

てすれば其原因は種々あらんと雖ども合衆國が平和を主義として東洋の商賣上に政略を利

用せざる如きはその重なる原因なりと云はざるを得ざるなりされど歐洲の諸國にして東洋

に志しなきものは即ち止む苟しくも其志ある以上は土地侵略の政策に出づるは盖し必至當

然の勢なりと云ふべきなり我輩竊に之を聞く近時獨逸が東洋に於ける政治上の權力は實に

非常のものにして一個の商人にても宰相ビスマーク公の手簡を持參する者は東洋諸國の其

筋に於て格別の遇待を受け萬事に都合宜敷を以て頃日獨逸より東來の商人は何れも同公の

手書を帯び或は公の傳言を齎らさゞるものはなく公の墨付は其効力恰も東洋市塲の通行券

に均しと云へり其事の實否はともかくも近來東洋に於ける獨逸の商賣は歴然政治上の陰影

と相結着して大に其働きを〓うすることは隱れなき事實にして獨逸の志果して其餘勇を東

洋に試みんとするにあらば其技倆はビスマーク公の一手簡一傳語に止まらずして第二の香

港安南を東洋の何れの邊にか見るに至るべきは最も數の觀易き處なれば東洋に國するもの

は東洋に於ける獨逸の商賣の消長如何に就て大に注意を要すべきなり