「養蠶製糸の業」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「養蠶製糸の業」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

養蠶製糸の業

日本の富國策は多言を要せず唯養蠶製糸の業にありとは我輩の素論にして屡ば陳述せし處

なるが我輩の希望終に空しからず近年來全國の殖産社會にては養蠶に着目するもの日に多

きを加へ既に或る二三の地方に於ては縣官自ら卒先して蠶桑の業を奬勵するの沙汰さへあ

り今や全國の人心は既に已に養蠶の利益を悟り人々自ら進んで其業に從事せんとするの有

樣なれば養蠶奬勵の事に關しては最早他より彼是と心配せずして十分なりと申す次第は此

程福島縣下を漫遊して歸京したる人の實話を承はるに此頃東海道筋の養蠶家が種紙を求め

んとて同縣下に來りし處本年は諸方より種紙の注文夥しきを以て大抵は皆賣盡し一軒の家

にて五枚以上の種紙を餘し居るものは甚だ少なく漸く五六軒の製造家を尋ね廻はり數種の

種紙を取交ぜ辛うじて卅枚を求め得たりしとの事なるが蠶卵紙の種切れとは同地方にても

近來未聞の事にして本年全國にて養蠶の氣運の盛んなる一班は此一事にても窺ひ知るべし

といふ又桑苗の如きも本年は其需用頗る多く昨年頃迄は福島地方にて一本に付四五厘のも

のが本年はその三四倍即ち一錢四五厘に騰貴し尚ほ盛んに各地方に輸送すといふ全國の景

况既に此の如くなる上は蠶桑の事に就て最早我々の心配を要するに及ばざる事なるが又一

方を顧みて本年生糸輸出の景况如何を聞くに是又非常の好景氣にして昨明治十八年海外に

輸出したる生糸の總計は二百四十五萬七千斤(是は全く純粹の生糸のみにて玉糸、熨斗糸、

屑糸等は此外なりと知るべし)其價格千三百三萬圓なりしが本年は果して何程の輸出なる

や未だ詳細の報道を得ずといへども多分三百萬斤を超過するならんとの評判なり昨十八年

日本より海外諸國に輸出の総額は三千六百十萬圓にて其中千三百三萬圓は全く生糸の價な

りとすれば生糸は総輸出額の三分の一以上を占むるものにて本年生糸の輸出三百萬斤に達

せば生糸のみにて殆んど総輸出の半額を占むるに至ることならん之を以て推測するに今後

生糸の輸出をして今の総輸出の額と均しきに至らしむるは言ふも愚か之を二倍し三倍し乃

至は五倍六倍するに至らしむるも人々の心掛次第にて决して期すべからざるの望みにあら

ざるべし而して絹糸の需用は世界文明富實の進歩と共に増すことあるも減ずることなきは

今日の實際に於て疑ひなき事實なれば今後日本の富国策は敢て其多きを望み又其難きを責

むるを要せず唯桑を植えて蠶兒を養ひ之を製して糸となし海外に輸出して世界の需用に應

ずるのみにて可なり談、甚だ容易なりと謂ふべし、さて養蠶の事は前記の如く既に全國氣

運の向ふ所なれば夫にて十分なりとして我輩の更に此上に希望する所は我國生糸の品質を

改良するの一事なり我輩の聞く所に依れば現今歐洲の市塲に上り製造の用に供せらるゝ生

糸の品質は佛國並に伊國製のものを以て第一等とし支那及び日本製のものは其品質疎惡に

して欧洲製のものに劣ること數等の下にあり故に日本の生糸は歐洲の市塲に於ては纔に支

那製のものと伍をなすのみにて佛國並に伊國製のものと比肩することは迚も思も寄らざる

事なるが日本の蠶質は天然下劣にして良好の生糸を得る能はざるかといふに决して然らず

唯その製糸の方法未だ至らざるが故なるのみ今夫れ養蠶の業たる日夕田圃の桑葉を摘截し

來りて蠢々たる裸虫を養ひ若干の時月間に成繭の収穫を納むるものにて恰も農夫が耕作に

從事して穀物を収穫すると同じく純然たる農の事なれども製糸の業に至ては大に之に異な

り錬磨の巧と機械の力とを要するものにて最早農の事にあらず即ち工の事なりされば養蠶

の業と製糸の業とは農と工との區別にして立派に分業の行はるべき筈なるに日本にては古

來今に至るまで兎角其間に分業の行はるゝこと少なく桑を刈り虫を拾ひたる粗笨なる農夫

の手を移して直ちに智巧錬磨を要する工の事に兼用すること十中八九皆然るがゆゑに其製

造品の疎惡なるべきは素より怪しむに足らざる事にして畢竟日本生糸の歐洲製のものに比

して其品質の下劣なるは其製法の未だ至らざるが爲めなるのみ盖し蠶糸の業猶ほ幼稚なる

昔日に於ては農工の仕事を兼業し養蠶家即ち製糸家たるも亦免れ難き處なれども蠶桑の事

業大に進歩して之に依頼して一國の富源を維持せんとするの今日に至ては亦昔日の舊套故

態を墨守すべきにあらず宜しく養蠶と製糸とを區別し彼の所謂坐繰などいふ事を廢し速に

器械の製法に改めて大に生糸の品質を改良するこそ今日の急務なるべし抑も日本の地たる

氣候温和地味豐腴にして蠶桑の業に適するは申すまでもなく川流到る處に開通し其水質清

冽にして之を利用して生糸の製造に供すべし我國人は須らく此の天與の惠福を全ふし大に

進んで生糸の製造を盛んにし其品質を改良して内は一國の富源を養成し外は世界の市塲に

縱横するの策を講ずべきなり