「東京市中防火の一法」
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本文
東京市中防火の一法
本年も時既に冬季に屬し東京市中は彼の恐るべき火事の時節とはなりぬ今よりは霜月空に
凍り朔風怒號するの夜毎に南街東陌出火を報ずるの警鐘都人の眠を打破ること亦例年の如
くなるかと思へば覺えず身の毛もよだつ程の次第にて或人は之を評し東京市中は冬季の間
恰も戰時戒嚴の下にあるものなりと云ひしが實に其言の如く東京府民は冬季に至れば一夜
も枕を高うして寢る能はず常に衣服調度を始末し置きスハと云はゞ父子相呼び老幼相扶け
負擔して起つの用意をなし居るものにて正しく戰時戒嚴の下にあるものと云ふべしさて火
災の恐るべきは今更改めて申すまでもなく一夜の中に數十萬もしくは數百萬の財産を烏有
に化し去るのみならず時としては幾多の人命を殘害する事さへあり凡そ人間の貴ぶ所のも
の財産と生命とより重きものはなかるべきにその最も貴重すべき財産と生命とを一夜の間
に有爲轉變する禍害の社會に存するものありとせば之を根治絶滅せしむるの策を講ずべき
は勿論の事ながら我輩の考にては現在東京市街の有樣を其儘に存し置き獨り火事の沙汰の
みを止めんとするは到底望むべからざる事にして即はち東京市區の改正を實行して家屋の
建築法を一新し今の木竹造の建築を止め盡く煉瓦もしくは鐵石造のものとなすにあらざれ
ば火災の禍根を絶滅せしむることは迚も思ひ寄らざる事なれば其根治の策は後日の事とな
し當今の處にては唯十分に消防の用意を整へ又警察巡邏の法を嚴にして成るべく火災の起
らざる事に注意し既に火災の起るに至らば手早く之を消防するの手段を運らすの外なきな
り
〓今東京市中にて實行する消防の仕組を聞くに警視廳内に消防本部を置き十五區内に六分
署を置き各分署に消防夫を配置し警部巡査を以て消防司令官となし毎年十一月の初より翌
年五月の初まで即ち火災多き時節に至れば別に五十三箇處の消防分遣所を設け消防夫の數
は一組五十人にして都合四十組即ち二千人あり一組毎にポンプ其他消防器具を備へ出火の
際には組頭小頭等が組中の人員を率ひて火事塲に出張し他の組々と共に消防司令官の指揮
を受て消防に從事するものなりといふ右は昨年來警視廳にて施行したる消防法にして今季
に於ては更に改良を加へて大に面目を改めたる處あらんも知るべからずと雖も要するに今
の消防法は重もに人力に依頼するものにて不完全のものたるを免れず抑も防火の方法は第
一に器具を備ふるにあることなれども一時に幾百臺の蒸氣ポンプを買入れて之を府下十五
區内に配附するは今の東京府民の經濟に於て目下即刻調達し難しとあるときは先づ當分の
處にては東京府下の消防法は重もに人力に依頼すべきものと覺悟して其方法を講究せざる
べからず而して今日最も費用を要せずして大にその效を見るべきものは東京駐屯の陸軍兵
士をして府下火災の消防に從事せしむること是れなり
目下東京に在屯する陸軍の諸兵は近衛、鎭臺、教導團等を合算すれば其數凡そ一萬に上る
べし其中近衛兵は皇城警衛の任に當るものなれば之を除き其他の各兵營には隊毎にポンプ
を備へ置き練兵散歩の餘暇を以て消防の方法とポンプの使用法を練習し兵營所在の位地に
應じて預め消防受持の塲所を夫々定め置き出火の警報を聞けば將校士官の命を受けて直に
受持の塲所に出張し消防組と力を合せて以て消防に從事することゝなさば其效大に見るべ
きものあらん人或は兵士をして市街の防火に從事せしむるときは兵士たるの威嚴を損し紀
律を紊るの恐れあらんといふものあれども火を防ぐは猶ほ敵を防ぐが如く上將士官の指揮
命令に從ひ進退駈引總て軍人の紀律に依りて正々堂々此に從事せば軍人の威嚴を損するこ
とも又その紀律を紊ることもなかるべし况してや一旦曲突火を失し警鐘四方に響き渡り老
若男女右往左往に逃迷ふ最中、火は既に炎々の勢ひをなして乘ずるに烈風を以てし一炬の
下に全都を焦土せんとするに當りては恰も一戰塲を開きたるものに異ならず是時に際して
よく上官の指揮に從て進退駈引其度に應じて猛火の衝に當り其驕鋒を挫折して以て消防の
功を収むるは亦一番の壯快事にして兵士の餘勇を養ひ實地駈引の習練を得るに於て大に功
能あることならんされば兵士をして消防に從事せしむる事は所謂一擧兩得の策にして且つ
之を實行するにも容易なる事柄なれば我輩は警視廳陸軍省協議の上にて早く此事を實行し
以て府下火災消防の實を奏せんことを勸告するものなり