「居家の治に乱を忘るゝ勿れ」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「居家の治に乱を忘るゝ勿れ」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

居家の治に乱を忘るゝ勿れ

家に居るの難きは國を治るの難きに異ならず治に居て亂を忘るゝ勿れとは政治家を警るの

言なれども我輩は今この警を將て居家の人に告げんと欲する者なり抑も明治政府は太平の

政府にして近年政治上に大事變なきのみか官吏の更迭さへ少なく官海波靜にして民間亦甚

だ穩なりと雖ども國事の重を負擔する當局者はこの目出度き治世に居ても必ず亂を忘れず

して人の知らざる處に苦勞することならん盖しその如何なる事に苦勞して如何なる方略を

運らし如何なる方角に向て如何なる胸算を成すやに至ては我々の知る所にあらず殊に我民

間に在ては政府の事情を探ること最も易からずして人の筆に記したるを見ず人の口に語る

を聞かず日本國の民が日本國の政略に漠然たるは實に楚越の疎縁なるが如くなれば是れは

一切政府當局者の負擔として我々國民は遠く政府の外に居り謹で事の成跡を見るのみ今の

日本國民の分として誠に當然のことにして國事は一切政府の事と定まり國民は一切これに

喙を容る可き限りにあらず其境界甚だ分明なりと雖ども苟も日本國民として家なきものは

あらずして其家は則ち國民私有の家なるが故に此家に居る者は自から居家の覺悟なきを得

ず其覺悟甚だ大切にして扨これを如何して可ならんと云ふに是れ亦國を治るが如く治に居

て亂を忘れざるの要訣あるのみ近年は商况不景氣の爲めに金の利足非常に下落し都鄙の金

滿家が資本金の用法に苦しみ之を諸銀行に預けんとすれば當座は一二分定期は三分乃至四

五分と云はれて外に妙案もなく先づ整理公債にてもとて五分利のものを百圓以上に買込む

などの時勢なれども此時勢なるものは百年永續の時勢なるべきや我輩の所見は决して然る

を得ず東洋の一國資本乏しくして人工多き此日本に於て金の利足が四五分などゝは異常の

最も甚だしきものなり既に横濱にある外國バンクの支店にても一年の定期なれば五分にて

金を預るものあり然るに内地の金利がその五分にも足らずとは何かの變に由りて然るもの

にして其變は更に一變して常に復らざるを得ず其變動何れの時に至りて何れの處に發すべ

きや一家の主人たる者は常に注目せざるを得ず又近來は諸方の金穴が地面に目を着け都鄙

共に漸く地に價を生じ東京府下の屋敷地などは非常の騰貴にして昨年に比すれば二倍三倍

甚だしきは五倍十倍するものさへ少なからず是れも不思議なる譯なり田舎の田地が一時下

落に過ぎて米價は左まで下落せず試に十露盤に問へば資本金に對して一年六七分の利益は

見る可しとて徐々に其買入に着手するは一應尤もに聞ゆれども東京の屋敷地の如きは之を

人に貸して正味割合よき地代の取れ上る可きにもあらず唯大都會の地面は價の貴き筈のも

のなり其地面より實際の収入如何に拘はらず不用なれば之を賣却して金にすることも易し

など云ふ富家翁の胸算にて之を買入れ氣長に時節到來を待つ其中に早くも隣の人の耳に入

り隣翁の策妙なり我れも之を學ばんとて其轍に傚ひ一犬實に吠れば幾十幾百の投機者は殊

更に虚を吠へ立て啻に金穴に向つて地面を賣るのみならず時としては金穴の所有地を買ふ

て實利を得せしむることさへ少なからざれば遂に都下一般の地價に好景氣を催し其賣買の

盛なる前年の兎萬年青も啻ならず實に驚き入たる商况の變態なりと云ふ可し抑も實價の有

無に拘らず時物の流行して賣買の盛なる間は其物を所有するは金を握るに異ならず兎萬年

青即ち金銀なれども流行の止むや最早や金銀にあらずしてたゞの兎と萬年青のみ故に目下

東京の屋敷地も金銀に異ならずと雖ども我輩は早晩何かの變動に逢ひ其金銀たるの裝を失

ふてたゞの屋敷地ならんことを恐るゝものなれば假令へ政治外にても家に居る者は斯る變

動に備へざる可らず即ち居家の治に亂を忘れざるの警は是等の機に臨て大に得失の方向を

示すものならん而して此變動は何れの道より到來すべきやと尋るに殖産の事業回復して商

况の新面目を開き金融活溌にして資本を閑却するの遑なき塲合に於ても之を見るべし如何

となれば本來日本は資金に乏しき國柄なるが故に苟も商賣上之を用るの機會を見出すとき

は金利忽ち騰貴して五分利の公債證書など所有する者とては一人もある可らず况して實價

もなき地面を所有するが如き商人の斷して安んずる所にあらざればなり以上は實に目出度

き變動にして其到來も甚だ遲々たる可けれども又或は目出度からざる變動もあるべし即ち

政府の内治外交は何時如何樣の變動も測る可らず若しも此變動が急劇なる性質のものにて

あれば疾雷耳を掩ふに暇あらず國事の利害は忽ち家事の瑣末にまで及ぼして容易ならざる

ものある可し之を古來世界中の歴史に徴して明なり又近くは明治維新以來の出來事を回想

しても稍や臆測す可きなれども唯人智の不明今日より明日を前言すること能はざるが故に

不明なる者は不明に處し家道を堅固にし又巧にして居家の治に亂を忘れざること肝要なる

可きのみ