「 國貧にして饑饉の災難に應ずるの法如何 」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「 國貧にして饑饉の災難に應ずるの法如何 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

 國貧にして饑饉の災難に應ずるの法如何 

我日本は東洋未開の一國より起りて僅か人間一代の間に西洋の諸國と其文明の前後を爭はんとするほどの决心なりしがゆえに開國以後今日に至るまで奮き事物を棄てゝ新らしきを採用する其數幾千萬なるを知るべからず國民の多事艱難實に譬ふるに物なきなり而して斯る辛苦の後今日は既に其業成れるやと尋るに决して然らず前途尚ほ甚だ遼遠にして正しく望洋の歎を免かれず殆んど人をして落膽失望寧ろ中道にして廢するの勝れるに如かざるかを疑はしめんとするまでなり幸にして今日までは全國の人心一致し勇氣凛然身を殺して文明を求むるの覺悟なりしがゆゑに苦痛を忍び艱難を凌ぎて敢て自から其勞苦を感ずることもなかりしといへども近年全國の不景氣に農工商業すべて其生氣を失ひ一年一年に衰弱して次第に回復の望みを減じ人に勇氣なく家に財産なく文明開化の議論の如きも漸く既に國力不相應の迂濶談たらんとするの有樣に推し移りたるは實に慨歎するに餘りありといふべきなり日本の國情實に斯の如く甚だ悲しむべきなりといへども然れども國の文明開化の事亦决してゆるがせにすべからず去ればにや我日本政府が文明國の体面を維持せんとするに汲々たる殆んど他事に心を及ぼすの暇なからんとするまでなり陸軍増さゞるべからず砲薹築かざるべからず軍艦造らざるべからず官廳建築せざるべからず教育盛にせざるべからず警察嚴にせざるべからず北地開拓せざるべからず南島警備せざるべからず曰く何曰く何とて其事國より枚擧すべきにあらず事繁ければ隨て此事に任ずる人の多きを要するは無論の事にして年々歳々文武官吏の數増加して今は十萬人に達するも近日の内に在るべき實勢を見るに至りたり盛なりと云はざるを得ず事繁く人多ければこれに要する所の費用も莫大にして中央政府の歳出年々に増加して目下既に七千五百萬圓の聲を聞くに至れりこれに地方費區町村費等を合すれば全國一年の政費大數一億一千萬圓に下らず决して少なしと云ふべからざるなり此貧困なる國民にして此少なからざる政費を支辨するは如何に文明の爲めなりとは云へ隨分困難なる事と云はざるを得ず夫れも數年前に在ては紙幣の價甚だ安く正貨一圓を以て紙幣一圓五十錢内外を買ひ得たるがゆへに一億圓の政費といふとも其實は六七千萬圓の負擔たりしに過ぎざりしといへども今日は然らず銀紙一致して一圓は即ち正味の一圓を要することとなりたるがゆへに稱呼上に於て政費の金額に増加なきも其實は四五割の増加なるべきに况して其金額をも増加し之を補充するが爲めに醤油税菓子税などとて近年追々新税の現はれたるも少なからざるに於てをや國民の困難想ふべきなり身は日本國民として日本國天地に棲息しながら租税の義務を果たすこと能はずして多くもあらぬ財産を公賣處分に附せらるゝ者近來國中到る處に充滿するを見ても民情の如何を察知するに足るべきなり然れども文明開化の事止む可らずとすれば國民多少の困難を憚りて政務の方向を轉すべきにあらず政務今日の方向に在て其事甚だよく擧がれば政費も亦今日より次第に増加するの恐あるとも減少するの望なかるべし果して然りとすれば今の日本國民はよく長く此政費を支辨し得て文明の事に差支なきを得べきや如何此事甚だ思案を要するの點なるべし日本國民が富を作るの道も前日に比すれば漸く進歩改良したるに相違なしと雖ども其進歩改良は果してよく今の文明を求むるの費用と併行することを得るや否や甚だ氣遣はし日本の新富源と稱する生糸製茶に於てすら其外國に賣出す全額を合算するも僅かに二千萬圓に過ぎず日本國内に富を作るの道の尚ほ甚だ乏しきを知るに足るべし何程贔負の眼を以て見るも今の日本國民の理財法は收支相償ひて收入に餘剰あらんと云ふを得ざるならん平時に於てすら既に斯の如しとすれば一旦天災地異の爲め全國凶年の沙汰あらんか既に貧困衰弱を極め姑息纔かに生命を維持する此國民にして爭でか臨時に一年の日月を支ゆるの餘力あらん老幼は空しく家に餓死し壯者は散して四方に流離し全國荒凉到る處に無人の地を見出すこととなるならん此時に當り文明の事何程に大切なりとするとも又政府收税の法何程に巧なりとするとも實に無きものは入るべからず歳入不足して歳出の減少を要し必ず大に政務を省略するの必要に迫らるゝことあらん政費の不足を補ふの策は或は不換紙幣を發し或は外債を募るの例世間に其事少なからずとへども是れ皆一時の權策にして度々繰り返し得べきものにあらざれば此時に至て日本政府幷に人民の困難は盖し非常のものならんと想像せらるゝなり斯る想像をして遂にこれを實に見るの機會なからしめんとするには時の尚ほ及ぶべきに當つて大に爲す所あるを要するや明白なるべし我輩は日本國民の貧しきを思ひ又凶年饑饉等の災害を想像して國事の未來に憂苦すべきもの少小ならず早く全國民の一考を煩らはさんと欲するものなり