「 日本國民の資力 」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「 日本國民の資力 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

 日本國民の資力 

徳川政府の時代に於て中央政府幷に諸藩政廳が國民に税を課するに四公六民の唱へあり盖し當時の税源は專ら農税のみにして農民が田地を耕やして例へば米十俵を收穫すれば其内四俵を年貢として政府に納め殘六俵を農家の作徳とするを云ふなり左れども徳川を始めとして諸藩に於ても政府の費用次第に増加するに從ひ課税も亦次第に苛くなりて遂には五公五民の割合になりたる向きも少なからず隨分物論の喧しき問題なりき扨王政一新地租改正の後は土地の課税法も大に面目を改めて税を課するは獨り耕地のみに止まらず寺社朱印地武家屋敷地等の名稱も廢して一切平等に地税の科目に入り又一方には酒税烟草税醤油税印紙税等の新科目を設るに就ては地税の方は割合に於て稍や其負擔を輕くしたる譯なれども爰に何税と問はずして総て人民の手を離れて政府の手に入るものを税と名づけ其税の割合を舊幕府の時代に比して輕重如何と尋るときは今日の税は昔よりも多しと云はざるを得ず日本國の經濟を一家の會計と視て徳川の時代に其一家内の人民と名くる者が政府と名くる部分に向て如何なる義務ありしやと尋れば米の收穫三千萬石(徳川時代と今日と米作に大變化もなきゆへ今日の統計に從て三千萬石と視たるものなり)の内より五公五民の割合にて千五百萬石の高を納めさへすれば是れにて人民の役は終りしことなり即ち之を今日の金にすれば一石五圓相塲にして七千五百萬圓の金を政府に渡せば皆濟の勘定なり即ち人民の世界より毎年七千五百萬圓の金を作りて政府の手に渡せば其餘は悉皆人民の懷に殘り樣々の資本となりて殖産に利用せらるゝ勘定なり左れば今日に於て人民が政府に對する納税の義務は何程にて適當ならん又何程までは負擔に堪ゆ可きやと尋れば斯民は五公五民の負擔には堪えたるものなるが故に今日にても七千五百萬圓までは滯りなく納めて其苦樂は徳川の時代に異なることなかる可し即ち人民の貧乏も徳川時代の貧乏に止まる可きなれども我大日本國は開國以來文明開化に進歩して世界の文明諸國と鋒を爭ふ勇氣を生じ人民の生活も進み政府の事務も進み上流の士人社會にて漸く文明流の衣食住するのみならず政府も大に奮發して官途の全面早く巳に文明に變化し海陸軍は申すまでもなく教育なり勸業なり又交通の便なり警察の法なり一切新面目を開いて日常の交際居家遊宴の細に至るまでも舊套にては見苦しき時勢となりて隨て其費用も昔に比して増加せざるを得ず誠に是非もなき次第にして租税も次第に増加し彼の五公五民の割合たる七千五百萬圓の高は既に國税の名を以て中央政府に納まり其外に地方に於て地方税區町村費の名義にて人民より拂出す高は三千二百餘萬圓に上り之を國税に合すれば殆ど一億一千萬圓に近し内端に積りて一億五百萬圓とするも今日は正に七公三民の割合なるを見る可し即ち徳川の時代に千五百萬石の米を政府の筋に納めて之を五公五民と唱へしことなれば今その米の代價たる七千五百萬圓を國税に納めて其外に地方の收納を合して一億五百萬圓となるが故に七千五百萬圓が五公五民なれば一億五百萬圓は七公三民の割合たること明に見る可し五公五民尚且人民は貧乏したり今はこの割合を變じて七公三民となれり税源こそ異なれども七と三との割合は動くものにあらず人民の手を離れて政府の筋に入るものが五の數を超過して七の數に上り五に二を加へたり人民の貧乏は一層の甚だしきを加へざるを得ず人民何の餘力あれば殖産の資本を得べきや無理に殖産に從事して物を作り出すもこれを購買する者とてはある可らず誠に憐む可き次第なれども左ればとて是れまでに奮發したる文明開化を今更ら中止する譯けにも參らず海陸軍の廢す可らざるは申すまでもなく却て之を擴張せざる可らず交通、勸業、教育、警察の事など其筋にては中々以て熱心なれば今後ますます盛大に赴くことならん官員少なからずと雖ども一人を減ずることは難し其俸給薄からずと雖ども之を削ることは難し即ち文明の時勢の然らしむる所なれば其罪は人に在らずして勢に在りと云て可ならん扨人間世界の勢は人力の得て左右す可きにあらざれば斯る時勢の中に居て我々日本人民は如何すべきや戸外公共の事は兎も角も先づ一身一家の謀こそ肝要なれ我輩敢て政治の思想なしと云ふにあらず時として獨り沈思すれば妙案奇策湧くが如しと雖ども詰り一個人の空想たるに過ぎざれば政治の是非など漫語して可惜日月を費やすよりも國事は擧げて政府の人に打ち任せ是とも非とも言はずして早く一身の謀を爲さんと欲する者なればゆく(辶に且)ゆく鄙見を陳べて教を乞ふ所のものある可し