「理財上に變動の兆あり」
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時事新報に掲載された「理財上に變動の兆あり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
理財上に變動の兆あり
久しいな日本の商况不景氣、甚だしいかな日本の商况不景氣、昔し紙幣國内に濫行して物
價日に騰貴する時節に當ては商人が品物を仕入れて又これを賣るに一物として澤山に利益
を得ざるはなく金を拾ふは石を拾ふよりも容易にして滿社會唯繁昌の形容を見るのみなり
しが紙幣の流通漸く其高を減じ金の融通滑かならざるに至りて商品消費の途漸く塞がり物
價日に下落して何事を爲すも皆損毛の種とならざるはなし是れ即ち商况不景氣の時節にし
て此時節は今日まで既に五六年の久しきに亘るといへども絶えて一新回復の模樣なく尚ほ
今後何れの日まで持續し行くべきやも測られざる有樣なるは實に遺憾限りなき事と云ふべ
きなり然るに流石の日本人も餘り不景氣の長きに退屈を催したるにや數年來の籠城に世に
依頼すべきは唯公債證書のみと信じ居たる人々も漸く公債證書外に危險を冐し運をためさ
んとするの勇氣を生じ或は地面を買入れ或は諸會社の株券を買入れ或は鉄道を布設せんと
する等其擧動頗る活溌にして徃々人を驚かすに足るものなきにあらずこれを一二年前の有
樣に比較するに殆んど其社會を別にし其人を別にしたるが如き想ひあるなり而して今商家
資本家等の目的とする所を見るに金利は年四五分を以て十分にこれに滿足し敢て其少なき
を言はざるのみならず其投入したる元金の安否如何の如きも穴勝ち其詮索を要せずと爲す
ものゝ如く然り當時日本にて安全なる抵當品と云はゞ先づ第一に政府の公債證書に指を屈
し夫れより政府の保護の下に在る銀行會社及び確實堅固の名譽ある私立會社の株券類に移
り漸く下りて漸く不安心を増し終には只で貰ふもお斷はりなりと思ふ株券類も少なからざ
ることならん然るに目下公債證書株券類の賣買市塲の有樣を察するに目前其證書株券より
生ずる利金の多少を以て直ちに其價を定め公債證書は年五分の利子なるがゆゑに百圓に賣
買し某會社の株券は年一割の配當なるがゆゑにこれに倍して二百圓なりと唱へ其標準の單
純明白なる十呂盤を取るの要だにもなし尚ほ甚だしきは某地より某地まで鐵道を布設すべ
し其資本金何百萬圓これを何千株に分ちて募集すべしと云へば世人未だ其鐵道線路の何樣
なるを審かにせず又其工費の實際果して何程を要し開業の上にて其収益は果して資本金に
對し年何程に當たるべきやと知るに及ばずして先づ其株主中に加入し或は少しく躊躇して
申込みに後れたる者は無理に他人に就て其所有株の分配を依頼し若し承諾あるに於ては一
株に付禮金何十圓を出さんとまでに迫まる者さへあり鐵道必ず利益多きものならん又必ず
確實なるものならん併しながら人間世界何等の事業たるを問はず其事業自身に利益安全を
固有するものとてはあるべからず必ずや先づ其事業を實行するの方法如何を顧みるなるべ
し如何に文明第一の鐵道なればとて何れの地に何樣の方法を以てこれを布設し何人が其局
に當りて果して其支配を過まらず必ず首尾よく大利を収むることを得べきや否やをも深く
考るに及ばず唯鐵道布設の聲のみを聞て其株主たるの權利を幾十圓に買はんとするが如き
或は少しく勇進に失するの恐なきや如何又或は兩三年の後には外國人來て内地に雜居すべ
しと云へば地面の價忽ち騰貴し以前の三倍五倍に賣買して平氣なるが如き是亦或は少しく
胸算の當を得ざるものなきや如何甚だ疑はし然れども人間の重ずる所、金錢の上に出るも
のは甚だ稀れなり斯る貴重の金錢を授受して證書株券鐵道地面を賣買するに當り世上一人
として寸分の油斷を爲すべき謂はれあるべからず用心堅固十分に利害を考量して行ふ所の
事實世事の表面に現はれて斯の如しとすれば是れぞ即ち今日社會の大勢にして人力の左右
し得べきものにあらざるべし此時勢の赴く所後來果して如何の事態を現出すべきや或は事
情によりては理財社會上下顛(つくり眞)覆の騒動を醸すこともあらん或は無事平穩に繁
昌活溌の天地に移ることもあらん何分にも我輩がこれを今日に知らんと欲して知ること能
はざる所なり唯理財上世事の變動は善かれ惡しかれ社會極微の部分にまで行渡りて一家一
人としてこれを免かるゝことを得ざるものなるがゆゑに今日の如き異常の時勢に當りて十
分四方に眼を配りて世事の視察を怠らず害を避けて利に就くの工風を勉むること處世第一
の覺悟なるべし