「民業次第に衰るを如何せん」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「民業次第に衰るを如何せん」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

民業次第に衰るを如何せん

開國三十餘年來我日本國人は官民共に大に奮發し西洋の文明開化を學ばんとして舊物を愛

しむことなく舊を棄てゝ新を求め進歩駸々底止する所を知らず殊に維新以來政府の部分に

於て百事の擧りたるは實に著しきものにして諸官省廳の制度文物より官員社會の交際法に

至るまで全く舊陋習を脱して新文明の風を催し之を彼の舊幕府時代の樣に比すれば其文不

文天淵の相違にして西洋諸國人が今の日本を評して新日本と云ふも决して偶然にあらず實

に盛大善美なりと云ふ可し然りと雖ども凡そ人間社會無代價にて得らる可きものとてはあ

る可らず政府の筋にて斯くまでの美を致さんとするには自から其費用を要すること當然の

數にして我人民も悦んで之を負擔したれども今は其力のあらん限りを盡して此上に奮發の

氣色あることなし又政府の方に於て其財を費すも自から浪費と知りつゝ費すにあらず常に

謹儉の旨を示し例へば彼の皇居の御造營すら數年來の議にして今日尚未だ成らざる程の次

第にして深旨の所在を窺見るに足る可きなれども文明は立國の大本にして此謹儉の中にも

財を愛しむに遑あらず以て天下經濟困難の今日に達したることならんのみ是に於てか將來

の事態を推測して此困難を免かる可きの道あるやと尋るに殖産社會は都て衰頽して回復の

見込あることなし時に或は某地方には何々の業を起して云々の民利を致したりなど取囃す

ものなきにあらざれども唯局處の評判のみにして之を全國の民業に照らし見れば實に大海

の一滴、論ずるに足らず其趣を喩へて云へば初秋の時節暴雨洪水地方の西より東より其の

報道を聞けば日本國中の田地は悉皆流失したるかと疑はるゝ程の慘状なれども秋収の時に

至りて實際を見れば洪水の災决して大ならず唯各地の一局部にして全國収穫の數より見る

時は九牛の一毛たるが如し左れば人間社會の變動出來事は事實よりも評判の騒々しきもの

にして彼の各地方に業を起して民利を致したりなど云ふ其評判も實際に於ては僅に水の一

滴、牛の一毛たるに過ぎざるのみ盖し一國殖産の事業は民心の向ふ所に從ふこと固より論

を俟たず民心爰に新にして新事業も隨て起る可き筈なるに今我輩は虚心平氣以て廣く天下

の殖産社會を見れば眼中唯土百姓素町人あるのみにして文明開化の在る所は甚だ寥々たる

が如し試に各地方を巡回して竊に農民の樣を見よ都邑に行て町家の家道を見よ口に如何な

る言を言ふて手に如何なる事を爲すや依然たる舊幕府時代の百姓町人にしく文明の何事た

るを知る者は甚だ稀なるを發明することならん今その文不文の割合如何を尋ねたらば日本

國中新暦を用るものと奮暦を用るものと其多少の數に等しと云ふも當ることならん改暦以

來既に十數年を經たれども純然たる民間には之を用る者なくして或は新暦日を政府のもの

と視做し御上の歳末、縣廳の正月など云ふ者さへ少なからず此邊の事情より推して考れば

百姓町人等は今の文明の事業を見て少しも其意味を解せず心の中には之を御上の文明、縣

廳の開化と合點することならん斯る民間に新事業の起る可らざるは明白なる數にして其殖

産の働は三十年前の働に異ならずと雖ども政府の財政の依て以て立つ所の財源は唯この土

百姓素町人あこのみ左れば今日政府にて文明の事を行ふ其資本は正しく不文なる人民より

來るものにして其文明の外見が如何に盛大善美なるも盛大善美なる人民の殖産を以て支ゆ

るものにあらず人民の殖産は恰も政府の事業の後楯なるに其殖産の起る可き目的なしとす

るときは其事業も亦永久す可らざるや明なり况や近年に至りては民間の資本は日に缺乏を

告げ其缺乏いよいよ甚しければいよいよ商賣社會の信用を失ひ資本の走る處不生産(公債

證書の如き之を不生産の資本と云ふ)の一方に偏して殖産商工次第に退歩するに於てをや

政府の文明を持續することますます困難なるを知る可きなり然らば則ち今この殖産の民業

を起して此政府の困難を免かれしむるの法如何して可ならんと云へば我輩自から説なきに

非ずと雖ども唯その時勢に行はる可らざるを恐るゝのみ試に之を次に述べん