「日本の生糸」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「日本の生糸」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

日本の生糸

日本の國産中にて貿易品の第一に位するものは生糸にして現今將來とも大に日本の富を増

殖して文明開化を買ふの費用を償ふべき望みあるものは養蠶業を除くの外國中實に其事に

乏しかるべし斯くも大切なる養蠶業なれば近年追ひ追ひ世人の注目を惹き苟くも國家の富

榮を思ふ者にして皆養蠶の利を云はざるはなく啻に之を口に議論するのみならず漸くこれ

を事の實際に施して桑を植え糸を製する者の年々各地方に増加するは國の爲めに賀すべき

の至りなり然るに斯く養蠶製糸業の擴張するに連れて大に當業者の研究を要する所のもの

少なからず、製糸の方法は今のまゝにて差支なきや如何、生糸の價は今の相塲を永年に維

持し得べきや如何、生糸を外國に賣捌くの方法は今のまゝにて差支なきや如何、世界の市

塲は逐年其産額を増加する日本生糸を賣捌くに十分廣濶なるべきや如何等は皆今日に早く

研究して突然事に遇ひ當惑狼狽の憂なきやう豫め覺悟する所なかるべからざるなり精良の

生糸を得んとするにはこれを製するに精巧なる機械の力を借らざるべからざるは明白の事

なれども今の日本の生糸は概して簡單なる方法を以て繰り取りたる粗製品にして機械製の

生糸とては全國産額の三分一にも及ぶべからず而して此機械糸とても决して製造法の精良

を極むるものにあらずして纔かに手繰りの拙劣を免かれ得たるものに過ぎざるがゆゑにこ

れを世界の市塲に持出して伊國佛國等の生糸と相爭ふこと能はず彼れに對して常に幾歩を

讓り絹布を織るに伊佛の生糸は經と爲り日本の生糸は緯と爲るを常として嘗て其地位を進

むること能はず故に今後漸く養蚕業の進むと共に繭の供給も豐かになり各地に機械製糸塲

の増加を見ると同時に製糸の方法も亦必ず改良を要すべきや甚だ明白なり又今の日本生糸

の賣捌法を見るに唯これを横濱港に持來り同港居留の外國商人の歐米市塲に店を置いて直

接に生糸の賣捌を試むる者なきにあらずといへども些少の例外未だ以て日本生糸の大體に

影響するに足らず日本第一の貿易品にして一年の輸出額今日既に二千萬圓にも達せんとす

る大切至極の生糸を賣捌くに其當局の商人たる者が横濱以外の天地を知らず自から進んで

世界の市塲を立廻はり十分に販路を開通するの義務を盡す者なしとはさてもさても驚入り

たる事ならずや目下横濱の市塲に生糸の堆積すること二萬五千俵販路頓に閉塞して如何と

もすること能はざるは全く獨逸兩國開戰の兆ありて歐洲の風雲尋常ならざると又内國にて

は一昨年來生糸貿易非常の好景氣にして爲めに大に養蠶製糸業の擴張を促し昨年新糸の季

節以來内國各地より横濱港に持來る生糸の量非常に増加したるとに因るとはいへども然れ

ども亦日本生糸販賣法の拙劣にして三十年來嘗て改良の跡なく今の當局商人の力よく日進

の商運に應するの餘裕なきに因らずんばあらざるなり生糸を作ること甚だ易し初めて桑苗

を植え三年乃至五年にして成木の桑田と爲る既に桑の供給あればこれを蠶兒に與へて繭を

得ること甚だ易く繭は供給に不足なければ機械製糸塲を設けて精良の生糸を得ることも亦

甚だ易し斯くて全國製糸の業は益擴張進歩し生糸の産額は年々に増加するに獨り其賣捌の

局面に當る商人は依然として前日の商人より成立ち一切の組織すべて舊慣に由ることもあ

らんには折角の養蠶も生糸既に成りて其行く所を得ず瓦石と共に内國に堆積して空しく陳

腐し了はるべきのみ故に生糸販賣法を改良擴張するは日本の養蠶業を進むるに於て第一に

着手すべき緊要事なるべし又日本生糸の産額は逐年増加し其販賣法も大に改良擴張するも

のとしてさて此生糸の價は永年今日の相塲を維持して下落の恐なかるべきや如何我輩の見

込にては産額の増加するに從て其價格の次第に下落するは商業社會の大法にして生糸も亦

此法則の外に立つこと能はざるものと信ずるなり歐米の市塲廣しと雖ども亦其人民の富を

作るの力甚だ強盛なりと雖ども若し日本國民にして果して畢生の智勇を奮ひ大に生糸を作

り大にこれを販賣し歐米市塲を横行したらんには其供給漸く需用に超過して市塲に生糸の

停滯するを免かれざることあらん盖し今の絹布は其價高きに過ぎて歐米の富と雖ども尚ほ

これを贅澤品の外に置くこと能はず當時これを需用する者は僅かに上等の富豪社會に限る

の有樣なればなり然れども供給過多にして常に生糸の停滯を見るに至れば日本國民は必ず

其價を引下げて更らに販路を擴張するの策を取ることならん既に生糸の價下落すれば上等

富豪の人にあらざるも尚ほよく絹布を需用する事を得べく價愈下落すれば需用愈々増加し

何程多量の生糸といへども今日養蠶の利たる實に米麥を耕すに四五倍し次にこれを生糸に

製するの利も亦尋常のものにあらざるがゆゑに今後産額の次第に増加するに從て次第に其

價を減ずるとも遂に其利益の米麥を耕すに同じきものとなるまでには尚ほ幾多の年月階級

を要するものと知るべきなり况んや日本の富と技術の増加する際には大切の生糸を生糸の

儘に販賣せずして更らにこれに人工を加へ織物と爲して販賣し隨て又其利を増加するの望

もあるに於てをや兎に角に生糸は日本の大産物にして其製造販賣の事は直ちに國民の頭上

に影響し來るものなるがゆゑに其現今將來の事に心を用ひ宜しきを失はしめざるは獨り生

糸當業者の責のみにあらざるべし