「所得税論の參考前號の續」

last updated: 2021-12-25

このページについて

時事新報に掲載された「所得税論の參考前號の續」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

所得税は税の公平なるものなりとして理論上之を認可するも之を實地に施行せんとするに

當りては唯其條理の公平なりと云ふを以て漫に之を課す可らず凡そ租税の事に就ては古經

濟學者の論するが如く之を徴収する費用の少くして國庫に入る額の多きを撰はざる可らざ

るが故に所得税の額を調査すること果して困難ならざるか之を調査し得て之を徴収するに

多くの費用と煩はしき手數とを要せざるか仔細に此邊の事情を熟考して確かなる成算ある

に非ざれば容易に之を實施すること能はざるべし現に英國にてはピツト氏宰相たるの時に

當りて始めて所得税の法を創設し爾後久しく廢絶したりしが千八百四十二年ロバート ピ

ール氏宰相たるに及んで再び之を採用し時々税額の輕重變更ありしにも拘はらず今日まで

引き繼ぎて之を維持し來り収税者も納税者も共に其慣行に從て滑かに徴収し又納附するが

如くなれども然れども其課税の際には調査の不行屆なる處少なからず時に或は手落ち調査

洩れの廉もあるが故に所謂屋漏に耻ぢざる君子の流は其所得税の賦課に調査洩れの廉ある

を知りては之を默止するに忍びずとて後日或は匿名を以て其調査洩れの部分丈けを良心錢

と稱してワザワザ収税者の手許まで屆けるものも多しと云ふ英國は商業の國にして一般人

民の家計帳合頗る整頓せりと云ふ其英國に於ても既に前陳の次第なり、况して我國の如き

は家々の帳合皆な舊來日本流の雜駁なる帳面を用ひ當局者の外、傍人の見て解せざるもの

多きのみならず田舎地方に至りて見れば一方の大盡株、年々の所得少なからざるものが唯

多年の手心を以て家政を料理し金錢貸借等の事に就ては固より其證書を所持すれども其他

一切の出納は唯之を胸算中に加減するのみにして別に形ある帳面さへ備へざるものあるの

有樣なれば今新に此税法を設けて之を施行せんとするに就き一々納税人の所得を調査して

其價格を定むるの手數は英國にて始めて此税を創設したる時の比に非ざるべし且つ土地家

屋等より収入する金額は年々格別の差異なしと雖ども醫師代言人の所得の如きは年々其収

額を異にするものなるが故に我國の如き國柄にては之を調査するに其費用と手數とを要す

ること中々容易の事に非ざるべし凡そ税を課するには何處にも行き渡りて公平精密何人も

之を免れざることを期せざる可らざるが故に新に税を課せんとせば其脱税を豫防するに非

常の手數と費用とを要せざるや如何と之を講究すること肝要なる可し盖し未整頓の社會に

ては多くの収税費を要するものなりとは古經濟學者の發言せし所にして我國の如きは之を

歐洲諸國に比して収税上幾層の費用を要するは疑ふ可らざるの事實なれば新税を起さんと

するに當りては先づ其収税費の多少をも豫測せざる可らず例へば我政府にて明治十三年に

發布したる酒造税則中に自家用料の酒類を製造するものは一家内に於て製造高一石を超ゆ

るを得ず又一家の外に於て之を製造して之を賣捌くを得ず之を犯したる者は三圓以上三十

圓以下の罰金に處し仍ほ犯罪に係る物品及び器械を沒収す之を賣捌きたる者は其代價を追

徴すべし云々の箇條あるがため右の犯罪を防ぎ或は之を發覺せんとして目下某縣にては凡

そ六名ほどの檢査主任官を置く由なり斯くて此主任官は月給凡そ十圓位を取るものなれど

も間斷なく縣内を巡廻し居るが故に準判任官の旅費日當一日一圓として月に卅圓、之れに

月給を加ふれば一人に付き月に四十圓なり、四十圓の檢査官六人とすれば家釀檢査の爲め

一縣に付き一ケ月に凡そ二百四十圓を要する割合なり而して其犯罪者を發檢して之れに罰

金其他の處分を施すことは誠に稀有の事なりと云ふ斯くて右檢査官の爲めに一縣内にて月

に二百四十圓、即ち年に二千八百八十圓の費用を要するは甚だ惜む可きに似たれども酒造

税を課する以上は此等の費目を免るゝ能はざるなり勿論此一例を擧げて我國にて収税費の

多きを概言す可らざれども彼の所得税の如きは歐米諸國にても最も不人望にして然かも最

も六ケしき租税なるのみならず他の税目に比すれば収税の費用も亦頗る多き由なれば近來

世人の風説の如く我政府にて果して此税を起すの意もあらんには先づ我國状を熟察して其

税額と収税費との關係等を詳かにして然る後に徐に之を施行するところ肝要なれ但し租税

徴収の事は其始め頗る困難なるも一旦其慣例を爲して上下之れに安んずる時は漸く其困難

を感せざるに至るべしと雖ども我國にて新に所得税を起して其徴収上に困難を感ぜざるに

至るまでは中々容易の事に非ざるべし扨て今我國の實際に於て新に税を起さんとするには

所得税を以て最先なりと爲すか或は更に簡便善良なる租税あるべきか此邊の事に就ては我

輩聊か所見なきにあらずと雖ども姑く之を他日に讓り今唯我政府にて新に所得税を起すと

の風説あるを聞くに付け其向きの論者の參考の爲めに爰に聊か一言を呈して其注意を乞は

んと欲するのみ  (完)