「我士民に海外移住を勸告す」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「我士民に海外移住を勸告す」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

我士民に海外移住を勸告す

人民の國土に住居するは魚の水中に在るが如し大海に大魚を生じ小池に小魚を生ずるは無

論、その水の量の割合に從ひ魚の數少なければ善く成長し衆魚群集すれば其運動鈍くして

發生晩きのみならず甚だしきに至ては斃るゝもの多し夏時庭園の泉水に金魚を飼ふ人の實

驗する所なり今我日本國を見るに國土測量すれば地理上に小なるに非ず、富源求れば天然

に無きに非ずと雖も國民生活の根本たる農工商業の發達に就て見れば殘念ながら小國なり

と云はざるを得ず故に自利是れ國を利するの本なりと知りて貨殖を求る者は到底この小國

に居て大利を博するの道ある可らず小池に大魚を生ずるの例あらざればなり或は日本にも

十數年來稀に大に貨殖したる者なきにあらずと雖ども其貨殖の法たるや尋常一樣の法にあ

らず多くは機に投じて勝利を得るにあらざれば好き筋の手にすがりて唯一無二の庇蔭を蒙

りたるものにして商工社會の通法にあらざれば到底他人の得て學ぶ可き所にあらざるなり

抑も商賣に運不運あるは爭ふ可らざるの事實なれども又一方より視れば自から定りたる規

則慣例あるものにして何ほどの資本を何商賣に用ひて何ほどに勉れば何ほどの利益を生じ

何年の後には何ほどの富を致す可しと大抵これを豫算して尋常の有樣なれば大に違ふこと

なきを法とす例へば田畑町地面を所有すれば危險は少なけれども貨殖は遲し不毛を開墾す

れば一時に資本を要すれども永年に大利益あり海運の船に利益多くして陸の貸家は薄利な

れども其利益の厚薄は事柄の安危に由て平均す可し呉服太物木綿問屋は利益薄けれども其

商賣大にして品物に安全の性質あり魚肉野菜の賣買に大利あるが如くなれども不時の損毛

を計算すれば左まで香ばしき商賣にもあらず云々の談は必ずしも學者の説明を煩さずして

通常市民の能く知る所なり然るに近年日本の殖産社會を見るに何等の事業に從事して如何

なる利益を得たる者あるや我輩これを見ること甚だ稀なり不毛の地を開墾したる者が悉皆

失敗したるのみならず既墾の熟田を所有する者までも不利を訴へざるはなし呉服木綿肥料

材木等諸種の商賣に一時は利あるが如くに見へたれども是れは唯一時紙幣濫發の爲めに生

じたる浮雲の空利益にして今は却て其反動に苦しむのみ何れの點より見るも日本國に於て

尋常一樣の商法に從ひ大に貨殖の道を求るも到底得べからざるものゝ如し故に我國民中祖

先傳來の遺産を承け鳴かず飛ばずして細く長く生活せんと觀念したる輩はイザ知らず苟も

心身屈強にして其働きを逞ふし以て男兒の生を遂けんと欲する者は眼を轉して海外を見る

こと肝要なるべし隣國に支那あり太平洋の彼岸に亞米利加あり南に赤道を過れば濠洲亦富

源に乏しからず行て耕さんと欲すれば無税の沃土あり物産を作り出せば其販路に際限なく

商業を營めば信用甚だ廣し即ち尋常一樣の商法工業に從事して貨殖の慥なるものなり况ん

や是等の貨殖法は日本人にこそ耳新らしけれども文明諸國の人民には最も普通の事にして

其成功の事例枚擧に遑あらざるに於てをや我輩は口を放て今の天下の士民に向て其海外移

住を勸告する者なり世人或は海外の移住と聞き皇國の人口が減少するなどゝて淋しき思を

爲す者もあらんかなれども是れは誠に益もなき心配にこそあれ我大日本國には既に三千七

百萬の男女ありて尚ほその上に毎年増加すること五十萬に下らず此群民の一部分を外國に

排洩すればとて何ぞ愛しむに足らんや啻に愛しむに足らざるのみならず前節に云へる如く

小池に衆魚群集すれば相互に其發育を妨るの道理に等しく今の士民は日本と名くる貧社會

に群集して相互に生活を爭ひ又隨て相互に妨るものなるが故に其一部分を外に移せば内に

一部分丈けの餘地を生じて跡に殘る者の生活も稍や寛なるを得べし外に出る者は外に利を

得て内に居る者も亦内の利あり一擧兩ながら利するの海外移住にして何ぞ之を愛しむに足

らんや我輩は斷じて其利を語る者なり