「移住の氣風」
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本文
移住の氣風
甲國人民が乙國に赴きて生活するを移住と云ふ此移住は人民を各處に散在せしむるの手段
にして人民既に散財すれば其の文物亦これと共に傳播するは勿論なりされば方今西洋各國
の人民が獨り全世界に散在して其政教風俗の特に滿天下に傳播せしは其人民最も移住氣風
に富めるが故ならん盖し古來人民が移住する由縁は種々ありて一樣ならず太古には人民獨
り亞細亞の中央に住居せしも歳月と共に繁殖して土地既に之を容るゝに足らず故に其人民
四方に移住して五大洲中到らざる處なく以來數千年の星霜を過ぎ今日に及びては文明の人
あり野蠻の民ありて容色亦幾種に分かれたれども其根源は皆一なりこれを人民移住の權興、
世界文明の発端とす其後希臘の世には人民多數相結び隊を組みて他處に赴きこゝに都府を
立て或は既に他族人民あれば之を征伏して其土地を押領したる後、一人を推して首長に任
じ皆其命令に從ふこと恰も獨立國に似たれども其政教風俗必ず本國の舊を守りて敢て變更
せず且本國を尊敬して常に同盟せり此新獨立國は追々盛大に赴き且其人民概ね富有となる
が爲めに本國に在る少壯輩は競ふて之に傚ひ地中海岸は過半希臘同盟の土地となれフエネ
シヤ人民が大西洋岸黒海地方及び英國諸島迄も散在したるは亦希臘人民移住の方法に從へ
るなり
又羅馬の世には政府が兵力に頼りて四隣を蠶食し之を本國の版圖に加へて後、人民をこゝ
に移住せしめたれば其人民尚本國の戸籍を離れずして本國の法律に從ふを常とせり故に羅
馬は全世界を統合して一大帝國を成さんとするの勢にして其強盛なるに當りては西洋各國
大概皆之に覊屬せしかとも更にこゝに一大移住の端を開き之が爲に大帝國も遂に廢滅に歸
したるは時運の變遷と云ふ可し盖し其一大移住とは何ぞや未開の人民が亞細亞地方より歐
羅巴に侵入して他人の土地を奪ひ、之を奪はれたる歐羅巴の未開人民は更に他に侵入して
他人の土地を奪ひ、互に奪ひ又奪はれて一時歐洲の全面を動搖して羅馬の威力も之を防遇
する能はず終に所謂暗黒世界となりしもの是なり、歳月を得るに從て時勢も漸く定り各地
に各異の社會を組織したるもの即ち今の西洋各國にして爾來各國相互に移住の事なきにあ
らずと雖ども記すに足る可きものなく唯かの成跡の大にして全世界に影響を及ぼしたるも
のは亞米利加發見後の移住なる可し抑も此新世界の發見せらるゝやメキシコ及びペーリユ
ーに金銀坑の豐なるものありければ西班牙人の如きは鑛山の利を目的として之に走り數年
の動〓以て過分の財を貯へ錦〓故郷に歸りて餘生の安樂を買はんとするの外二念なき者な
りしかども英佛荷蘭葡萄牙等の政府は屬地を亞米利加に開かんとの目的を以て自國の人民
に移住を奨勵すると同時に歐洲の風景甚だ穩ならず凶〓戰爭打續きて人民その生を安んぜ
ず首を擧げて西の方新世界を望見れば生活に苦辛なくして富を〓すこと容易なりと聞く誰
れか心を動かさゞる者あらんや人民は政府の奬勵を待たずして自から奮て移住を企て其数、
年一年に増加して遂に皆永久の居處を新地に卜するに至れり尋で澳太利亞を發見せしに
こゝにも金鑛の富源あるが爲めに忽ち移住の端を開き千八百二十年より千八百六十九年に
至るまで五十年間に露國及び西班牙の人を除き他の歐洲諸國より米澳兩地に移りたるもの
八百二十二萬人の数ありと云ふ
右の如く古來人民が移住する由縁は種々ありて一漾ならずと雖ども其自國の文物を天下に
傳播するの成跡は同一なり希臘同盟の各國も羅馬所轄の屬地も皆其本國の政教風俗を守り
しが方今米澳兩地共に第二の西洋社會ならざるはなし斯く西洋各國の人民は古來屡々移住
して其文物を滿天下に傳播せしむるに其他各洲の人民は皆故郷に戀々として他處に赴き生
活するの氣風なきは寔に惜む可きなり凡そ自國の文物を他處に傳播せしむるを喜ぶは人情
の常にして例へば今の日本の儒者も佛者も其教旨を全世界に宣布せんと欲するは西洋の耶
蘇教徒が滿天下の蒼生を一神主義に導かんとするに異ならず其心中の冀望を書き出さば共
に大小の差別なかるべけれども耶蘇教徒のみ獨り之を實行するは何ぞや啻に宗教のみなら
ず凡ろ西洋起原の文物として日に月に其流行の區域を世界中に弘めざる者なきは西洋各國
の人民と他各洲人民との間に必ず大に異なる所のものあるが故ならん或人曰く西洋各國に
は人口繁殖して之を容るゝの他なし故に古來常に移住の氣風ありと此言も亦一理なきにあ
らず彼の太古人民の移住は姑く措て問はず其後希臘の移住も羅馬の移住も皆國内の人口大
に増加せし後に始まれり殊に羅馬政府は貧民棄兒を絶えず屬地に移住せしむるも尚此輩が
多く本國に殘れるを苦慮せりと云ふ又方今西洋各國の人民米澳兩地に移住するも幾分か人
口多くして土地少なくして人民漸く衣食に窮するときは移住こそ最良の策にして此外に救
窮の手段なしと雖ども西洋各國の人民が移住の氣風に富むは未だ必ずしも此一原因に限ら
ざるべしと思はる
今彼の印度は人口多く土地少なく人民概ね衣食に窮するに兼て亦其國は英國に覊屬して人
民に自主自由の權利甚だ乏しければ故郷に居るも外國政府に支配せられ他處に赴くも亦別
に異なることなければ其人民こそ盛に移住すべき筈なるに實際は全く之に反して國内に於
てすら容易に一處より他處に轉住する者稀なるは其人民固有の性質に由て然るものと云ふ
べきのみ又支那人民は傍近各地及び南洋諸島に移住し近時亦亞米利加に移住する者少なか
らざれども皆少壯の男子が一時外國に在て財を儲へ再び本國に歸らんとするに過ぎず此外
各洲人民は皆未だ移住の何物たるを解せざる者のみされば西洋各國の人民が多く移住する
は未だ必ずしも人口多く土地少なきに限らざるや明白なり今亦二三の例證を擧げて其移住
が政治主義に出るにも非ず又戰爭凶〓の難に由るにもあらざるの例證を示さんに千八百四
十七年より以後凡ろ五六年間、愛爾蘭の人民が多く合衆國に移住せしは同年該地に凶〓の
災ありて人民が衣食に窮したるが爲めならんかなれども同時に日耳曼の人民も亦多く移住
せしは决して凶〓の故にあらず尤も千八百四十八年日耳曼に改革の變ありしも成功せず人
民其不快に耐へずして移住したる者とせんか其後同國の自由黨が勝を政治上に得て廣く人
民に撰擧權を與へたれども其時には(千八百六十五年より七十三年まで)却て國を去る者
多かりしこそ怪しむ可けれ人民の移住は决して政治主義の如何に由らざるを知る可し西洋
各國中專制武斷の政治を以て有名なるは普魯士國にして然かも其政府は各國に先ちて人民
に自由移住を許したるが故に自國の政治に苦しむ者は際限もなく外に出ることならんと思
はるれども實際に於ては然らず千八百二十年より七十年に至るまで普國人の亞米利加に移
住せしは僅に二十萬人なりと云ふ左れば西洋各國の人民が多く移住するはこれを其の人民
固有の氣風と云はざるべからず
西洋各國の人民は移住の氣風に富めども其他各洲の人民は之に反す故に西洋各國の人民が
獨り全世界に散在して其文物特に滿天下に傳播するは自然の勢にして其他各洲の人は之を
默視するの外なきに似たれども左まで全く落膽すべきにあらず人文に開化野蠻の差こそあ
れ人種の黒白長短の異こそあれ各洲の人民皆よく西洋の文明を傳へ習ふを得る以上は此移
住の氣風亦傳へ習ひ難きにあらざるべし况して我日本に於てをや國を太平洋中に立て四面
水を環らして土地に隈あれども人口の増加には隈なし限なき人口を限ある土地に容るゝは
到底望むべきにあらざる尚その上に國内に殖産工業の新に起るものなくして目下現に衣食
に窮する者さへ少なからざれば此貧民を國外に移住せしむるは今日の急にして惟日本の文
物を國外に傳播せしむるが爲めのににあらざるなり