「何を以て萬里好來の客に酬ひん」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「何を以て萬里好來の客に酬ひん」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

何を以て萬里好來の客に酬ひん

條約改正して内地雜居となるの曉きに先づ日本の内地に入込む西洋人は如何なる種類のも

のにして如何なる事を目的として來るやといふに物見遊山の爲にもあらず又學術研究の爲

にもあらざるは勿論、まして日本の風土の美なるを羨み其政法の寛なるを慕て移住歸化す

るなどゝは思ひも寄らぬ次第にして若しも内地雜居全國開放の膳立、整ひたるその曉きに

主人が折角の好意を無にせず續々として萬里好來の珍客ありとせばそは商賣貿易に熱心の

商業家か又は殖産興業に心掛る資本家にして何れその目的は日本國内に利を求むるの一點

に在ることならん然るに此萬里好來の珍客は甚だ無遠慮殺風景にして利あれば來り利なけ

れば來らず來去向背全く利の一點にあることなれば若しも主人が此珍客を内地に招待して

爲めに利する所あらんと欲せば我を利し兼て彼を利し彼我同等、内外一樣ともに利に浴す

るの設けなかるべからず左ればにや日本の政府にても條約改正内地雜居の準備として在來

の法律を改正し民法商法等を編纂し裁判の仕組を新にする等昨今その用意中なる由にて畢

竟外來の珍客に心身内外の安固を與ふるの意ならんなれども仮令へ法律裁判の仕組こゝに

確定して人權物權に安固を得たればとて生命財産の安全鞏固は以て直接に利を生ずるの源

にあらず况んや生命財産の如きに至ては其本國にあるこそ最も安心なるべければ海外萬里

西洋の人が何を苦んで其安心なる故國を辞し極東絶海の一孤島に來らんや左れば内地雜居

の準備としては法律を改正制定し裁判の仕組を新にする等その用意まちまちなる中にも内

外親疎の別なく一樣同等に利澤に浴するの道を開き以て他の利心を誘導するの工夫最も大

切なりと云ふべきなり

今より三十年前西洋諸國が日本政府と條約を結びし時に當り治外法權とて外人の居留地内

は日本の法權の及ぶ能はざる區域となして外人自ら裁判するの制を設け又西洋諸國より日

本に輸入する貿易品に課税するには先づ諸國の承諾を要し勝手に日本の政府に左右せしめ

ざるの法を定めたるは何故なりやといふに當時日本の文化甚だ幼稚にして政法も東西趣を

殊にしたるもの多かりしが爲めに日本の風景は外人の目に野蠻とのみ見へ斯る野蠻政府の

保護の下にその性命財産の安固を托せんなどゝは思ひも寄らずと斷定したることならんと

雖ども實際その内に在て之を見れば不始末なる中にも自ら秩序を存し日本の政法思ひの外

に危險ならずして决して外人の想像せし如く不安心のものにはあらざりしなり又時の政府

の役人の如きは案外に公平廉直にして之に税權を任せたりとて敢て不相當の課税をなす者

にもあらざれば法權税權ともに之を日本人に任せたりとて差程の不安心なきは實際に見る

可しと雖ども外人の目を以てするときは日本の法律には成文なく日本の法廷には陪審なし

况して大名士族は恣に人を殺戮するの權を有するなど實に言語道斷の次第にして又政府の

役人の心次第にて一朝夕の間に税率を上下するなどの事は當時の有樣にて敢てなし難き所

にあらざれば實際は仮令へ是等の不安心なしとするも既に其仕組に於て其事のあられ得る

以上は當時日本の内情に通ぜざる外人が不安心の思ひをなし日本の政府に人を裁判し物に

課税するの全權を與へざりしも時に取て尤もなる處置と云はざるを得ざるなり

扨今日に至りて日本の商工社會は安全鞏固にして而も一〓〓等の利澤に浴し曾て内外親疎

の區別などあるまじきは我輩の信ずる所にて我々日本人の眼中には何も怪しむべきものな

しと雖ども深く日本の事情に熟せざる外人の見る所にて果して如何あるべきや例へば日本

にて明治の初年文運草昧にして國内の商賣工業容易に起るべき模樣なきを以て一時これを

奬勵勸誘するの餘り或は政府の筋より救助保護の特典を與へなどしたる會社もあり人物も

ありしことにて幼稚の社會に在ては固より怪しむに足らずと雖ども世運漸く發達して社會

獨立の姿をなすの時に至ては其害决して少小ならず古來諸國の事例として其結果多くは自

ら損して兼て政府を損するのみならず大に他の獨立の業を害し詰り全國の商賣工業に非常

の害を及ぼすを常とすと云へり是等の弊害は今の日本國中既に其痕跡を絶たるや否や我輩

の保證する能はざる所のものなり又近來ブールス設立の風説の如き其利害得失の談は外に

しても徒らに商賣世界の安寧を害して平地波瀾の觀なきにあらず我々日本人ならば云々の

内情も疾に承知の前にして又例の云々なる哉とて格別これを怪みもせざれども事情不通の

西洋人より見たらば日本の商工社會は一樣同等の利澤甚だ薄くして商賣の安固輕きこと雲

の如しとの感をなすものなきにもあらざるべし故に唯利是れ目的とする萬里好來の珍客を

迎えんとする東道の主人たるものは善制美法の膳羞の外に猶ほ一種の趣向なかる可らず盖

し其趣向とは何ぞや無味無情偏なく黨なく誰れの口にも適し誰れの腹をも充たし平等一切

商工社會の全体を滿足せしむ可き饗應の献立即ち是れなり (石河幹明)