「鐵道の流行」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「鐵道の流行」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

鐵道の流行

日本にて鐵道論の盛なる今日の如きは古來未だ曾て有らざる所なり既成の鐵道は全國各線

路を合計して其延長僅かに四百英里内外これに目下工事中の東海道鐵道東北鐵道を加ふる

も尚ほ一千英里に足らざるものなりといへども今日既に世の起業者の目に留まり既に鐵道

圖幅中に其形を現はしたる新線路は九州鐵道と云ひ山陽鐵道と云ひ大和鐵道と云ひ四日市

鐵道と云ひ信濃鐵道と云ひ越後鐵道と云ひ水戸鐵道と云ひ両毛鐵道と云ひ八王子鐵道と云

ふなど其合計里數は無論既に一千英里を超過し居るなるべし今日の有樣既に斯の如し此勢

を見て後來を察するに各地敷設の計畫は今後更らに幾層の盛大を加ふることならん彼の米

國にて連年の間毎年一萬英里内外の新道を敷設し今も尚ほ其速力を減せずなどいふ話を聞

けばこそ偶々日本にて一年に一二千英里のものを作りたればとて左まで驚くに足らざるや

うの心地するなれども數年前までは東京横濱間神戸西京間に在る數十英里の見本鐵道を所

持するのみにて十分に滿足し居たる國民が今は漸く前日の非を悟り大に奮て工事を企て其

事の成否は先づ暫く問はず兎にも角にも圖畫の上丈けにても數千英里の鐵道を所持せんと

するに至りたりとは實に異常の現像なりと云はざるを得ず或はこれを稱して文明進歩の

駸々たるものと云ふも可ならん

然るに我輩は鐵道論の盛なるを見て國の文明の爲めに大に喜悦の情を催すと共に又一方に

は鐵道計畫の局に當たる資本家有志家等の擧動の聊か輕躁に渉るの跡なきかを疑はざるを

得ず盖し今の日本人は唯鐵道を喜ぶを知て未だ鐵道工事及び營業の如何なる重大事件なる

かを思はざるものゝ如し今の鐵道論者の爲す所を見るに一幅の日本地圖を壁間に掛けて夫

れ夫れ鐵道の新線路を相し圖中某港より某町に到るの一線路は途中に有名の山もなく又川

もなく至極鐵道に適應のものと鑑定す依ては此線路に鐵道を敷設することゝなし其延長何

百何十里工費一里に付平均何萬圓として總額何百何十萬圓これに相當する資金を集めて

何々鐵道會社と稱し直ちに政府に請願して工事の許可及び利益配當の補助保證を申受くべ

しと言出せば遠近の資本家これを聞傳へて相競て其株主たらんことを申込み數日にして株

主滿員し尚ほ後れて馳せ集まりたる者は豫約株主たるの權理を一株に付幾圓の禮金を出し

て先進の發起者より讓受け未だ請願委員の人撰も定まらざる内より早くも株の賣買を始む

るなど滔々たる鐵道社會の事皆然らざるはなきが如し竊に案ずるに日本全國數年來の不景

氣資本家は皆其資本の下すべき所なきに苦しみ纔かに公債證書に依頼して一時の命脈を維

持したりといへども此公債證書とても追々年五分低利の證書に引換へられて頼む木蔭に雨

の漏る心地しければ今は據なく勇を皷して四方を眺むるに無爲徒然の資本を下す爲めには

最大屈強の事業と稱すべき鐵道の在るあり其収益の多少は固より俄かに知るべからずとい

へども眞逆に年四五分の利に廻はらざる程の事はあるまじとて漸く皆鐵道に心を傾け好線

路を相して先取りの權を占めんとする者陸續各地に現はれ出るよりして忽ち全國の流行を

成し今は單に鐵道の名さへあれば其名に附屬する無形の株を一株幾圓に賣買するまでの勢

を成すに至りしことならん實に驚かざるを得ざるなり然るに爰に鐵道論者の一考を煩はさ

んと欲するの事は幸にして資本金は集まりたるが如何に此金の形を變じて鐵道と爲すを得

るか又既に鐵道と爲し得たる後如何にして鐵道の營業を爲すを得るかといふに在り唯金さ

へあれば鐵道は直ちに手に入るべし鐵道一たび手に入れば其業を營み利を収むるの事は辻

番の老爺尚ほ且つこれを能くすべしと信じて疑はず甚だしきは鐵道と稱するは唯會社の株

金を募集するまでの事にして敷設工事とか營業事務とかいふ類の事柄は固より株主發起者

等の與かり知るを要せざる所なりとて最初より曾て心頭に掛けざる者も多からんかと疑は

るゝまでの有樣なるは甚だ不審なり目下日本には鐵道技術師甚だ乏しく鐵道局に奉仕する

官吏を除くの外其人なしといふも可ならん然るに鐵道局にては東海道鐵道と云ひ東北鐵道

と云ひ急を要する工事甚だ繁多にして爲めに局内の技術師に不足を告げ自家の工事さへ尚

ほ且つ十分に手廻はらず此上他人の工事を手傳はん抔とは思ひも寄らざる有樣なりといへ

り左すれば今新たに敷設せんとするものは是非とも其技術師を外國に求めざるべからざる

譯なるが今の鐵道論者にして果して外國技術師聘用の成案を得たる者あるや如何或は其成

案ありとするも僅か數十英里の鐵道を敷設するが爲めに新たに外國技術師の隊伍を組織し

新たに工塲を打立てゝ斯くて一旦鐵道成るの後營業上収支相償て餘あるの豫算あるや如何、

鐵道を支配する事の六ケ敷は士族保護の國立銀行を支配するの比にあらず必ずや天下第一

流の才能を要すべし一縣一郡の資産家名望家なりとて文明に縁薄き人物にては其用を爲さ

んこと甚だ覺束なし果して適任の當務者あるや如何、數縣聯合して一線の鐵道を敷設せん

とし追て社長支配人等撰任の塲合に當り各縣皆其好む所の人を擧げんと欲して議調はず遂

に其社を解くか否らざれば一社に社長三名支配人三名を置て一時の和合を謀るなどいふ奇

觀を呈するの恐なきや如何我輩の甚だ掛念する所なり鐵道は文明の要具なり鐵道を造る甚

だ善し今の日本に鐵道論の盛なるは甚だ我輩の喜ぶ所なりといへども唯世人が今少しく鐵

道の事に注意して其眞面目を窺ひ鐵道を誤解誤用して後日自他の迷惑を釀すが如き失策な

からんこと我輩の特に希望する所なり