「商家の心得前號の續」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「商家の心得前號の續」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

男なり女なり其店の者を撰んで之を其商店に使用するに當て店主人の最も注意すべきもの

は此店の者どもをして主人と其利害を同ふせしうることなり從來日本の商店に奉公する店

の者は所謂奉公人根性にて仕事に蔭日向の別を立て動もすれば賣り溜めの金を誤魔化し客

に對して橫着にして兎角手足を勞することを嫌ひ土藏の内にある品物にても之れを持運ぶ

の面倒を憚りて或は之を所持せずと斷り用向きを以て他出すれば得たり賢こし道草を食ひ

往時歐米諸國に行はれたる奴隷が主人の鞭撻を恐れて唯其目前を繕ふと相去ること遠から

ずと云ふほどの塲合なきにあらず主人に取りては此上もなき不利益なれども彼の店の者等

が斯かる根性を養生するは决して偶然の事に非ず從來日本の商店にて店の者を使役するの

法は農工の二三男、小商人の小倅等商賣見習の名義を以て來て奉公を請ふに任せ唯三度の

食事を給し夏冬の仕着一枚づゝに僅かばかりの小遣錢を投與して十二三歳より三十乃至四

十までも奉公させ終始神妙に勤續したるものには主人の隨意を以て小商店を開くの資本を

貸す位の事に止まり目前直接の奬勵法なきが故に働くも可なり働かざるも亦可なり前途甚

だ遙かなる奉公の旅路に於て所謂道草を食ふ者あるは亦是非もなき事共なり左れば今此店

の者をして奉公人根性と脱して主人と其利害を同ふせしめんとせば時々形ある直接の奬勵

法を施さゞる可らず其奬勵法は種々樣々なるべしと雖ども凡そ店の者には金額の多少に拘

はらず月給を與へざる可らず聖人君子はいざ知らず通俗の人間は形ある直接の報酬に驅ら

れて働くものなり從來の方を以てすれば店の者は窃に不平の念を抱き我々多年奉公の苦海

に漂ふて首尾能く彼岸に達したる所にて店主人が相當の資金を出して我商店を開くの助け

を爲せば奉公甲斐もある可しと雖ども無情鄙劣なる主人に至りては店の者が最早年期明き

に近づく頃になれば態と其遊蕩を默許しながら一朝出し抜けに針小の罪を棒大に鳴らして

功を一〓に欠かしむるものさへなきに非らず或は少しの不行屆に由りて永の暇を蒙るも豫

め主人の報酬を約して其證書を所持する譯にも非ざれば之を奈何ともする能はずとて自然

懶惰に流るゝの趣あり詰る處が主人も店の者も一擧兩損なるが故に目前直接相應の月給を

與へて之を奬勵するこそ自他の利益と申すべけれ斯くて月給を與ふるには店の者の身分に

應じて餘り少なからざるを以て肝要とす從來日本の商店にて番頭小僧が賣溜を誤魔化すを

以て通例の如く思ひたるは其四資給の餘り少なくして實際立ち行かざるが故なり左れば相

應の月給を與へ或は人々日々の賣高を記し置きて其勤惰を徴し人々出精の度に應じて一年

二季位に多少に拘はらず利益金を配當することとせば店の者同士互に相競爭して主人の命

を待たずに自から勉強することとも爲らん奉公人が主人の利益即ち其身の利益なりと心得

て勉強すれば自然其店の賣高に影響して商賣繁昌の基を開く可きは言ふまでもなきことに

して其奉公人等に右樣の心を發起せしむる所のものは唯形ある直接の報酬即ち月給賞與の

如きものあるのみ、與ふるは取るの術なり吝しむは失ふの媒なり世の店主人たるものは徒

に目前の支出を憚りて一文惜みの百知らずに陷らざるの工風專一なる可し

次に店主人が奉公人に對する義務とも申すべきは在店中成る可き丈け都合して居家處世に

要用なる敎育を受くるの機會を其の奉公人に與ふることなり從來日本の商店にては店のも

のを待つに概ね奴隷を扱ふの法を以てし朝から晩迄これを追ひ使ふのみにして此店のもの

に相應の智識を與ふれば啻に當人の仕合なるのみならず無學文盲の人と稍や智見を具へた

るものとは其の働きに懸隔あるがゆへに主人に取りても亦た頗ぶる得策なりと云ふことを

知らざるものゝ如し甚だ歎はしき次第なれば店主人は双方の爲めを謀りて丁稚敎育の事を

忘る可らず斯く云はゞ人或は不審を起して店のものに敎育を授くること固より異存なしと

雖ども此店のものには二六時中寸隙なきを如何せんと云ふものもあらん畢竟日本の商店は

時是れ金の確言を重んせず毎日店の開閉の時間を定めて其時間内には活溌に商賣を營み客

も其の時間内に來て物を求むるやうの習慣を養はざるが故に唯べんべんと店のものゝ時間

を潰し去て常に餘裕を與へざるものなれば今後は商賣柄次第都て西洋商店の風を逐て其取

引時間を定め其店の者にも日々幾干の時間を給することこそ望ましけれ或は今後我國にて

も内外國人内地雜居の時節と爲り外國人の内地に來住して商賣取引を爲すもの日にますま

す多かる可きに就ては凡そ何の商賣柄に關せず店の者として外國人と共に内外國支那と取

引するには世界各國通商上に普通なる英語を修練せざる可らずとて其向きの商店にて英語

の敎師を延きて夜間店の者に英語と敎ゆるなどの思付もあらば今日にても之を實行するに

差支なかるべし斯くて店の者が夜間要務の閑暇に語學其他商家に必要なる學問を修むるこ

ととも爲らば彼等は次第に其方に身を入れ彼の小人閑居して不善を爲すの弊を防ぎ主人の

金を誤魔化して窃に花栁街に遊び果ては其身を誤るの塲合を減ずべきか故に店主人たるも

のは瑣少の費用を厭はずして業務の餘暇には店の者に勸學の道を與ふること甚だ肝要なる

べしと信ずるなり (畢)