「洋酒は純精ならざるもの多し第二」
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本文
洋酒其他舶來の飮食品は今日の上等社會に於て恰も交際に要物とも爲りしことなれば假令
へ贋製にして純精ならざるもの多きにもせよ全く之を廢す可からざるは勢に於て然るが故
に此等の人々は洋酒其他舶來の飮食品を吟味して成る丈け有害のものを自からも用ゐず他
人にも勸めざることこそ肝要ならん抑も我輩が舶來品に有害のもの少なからずと云へるは
獨り我輩の想像にあらずして西洋の諸學家が常に説明する所なれば既に疑を容るべからざ
れども亦其有害なると否とを吟味するの方法あれば是非共舶來品を飮食せんと欲せば相當
の順序に由りてこの吟味をなさんこと我輩の希望に堪へざるものなり
凡そ正銘の種類に就き其成分を見れば麥酒はアルコール、水、炭酸及びエキストラクトに
して葡萄酒はアルコール、糖、エキストラクト及び酸とす、酸には種々ありて一樣ならず
又ブランデー酒はアルコール及び水のみなれども佛國製の上等品は永く槲桶に貯ふるが故
にエキストラクト及び色分、タンニン抔を併せ含むと云ふ是れ正銘の酒類に缺くべからざ
る成分にして其分量を計り知るの試驗法には理學的と化學的との兩樣ありて其理學的のも
のは特に專門に屬し西洋には酒の種類に從て各々鑑定人を異にし例へば麥酒鑑定人又は葡
萄酒鑑定人と稱し其鑑定に由りて代價を定むるの風なりと云ふ此鑑定人は眼、舌及び鼻の
熟練を以て例へば麥酒の如きは味、香、色より濃薄、明暗、比重に至るまでを調査し尚ほ
光線の通過する模樣、罎口より注射するときの有樣、沈澱物の状況などに由りて吟味する
を常とす又化学的は諸學家に由り其方法種々なれども麥酒に就き化学的試驗の最も簡易な
るものを擧げんに此試驗は麥酒の近成分を吟味するに止まるものにて先づ麥酒を震蕩する
こと屡々なれば炭酸を驅逐すべく或は攝氏四十度の温氣を與へて之を放頓すること數分時
なれば炭酸は分離するが故に先づ其量を知る可し次で之を蒸溜すれば且蒸溜し得たるもの
を以てアルコールの量を知るべし或はエブリヲスコープ(寒暖計にてアルコール分の多少
を計る器械)にてアルコール分を計り之を火に上せて蒸發せしむれば水分及びアルコール
分は蒸散して跡に殘るはエキストラクト分にして之を寒燥すれば其分量を知る可し故に麥
酒の全量より以上のアルコール分炭酸分及びエキストラクト分を減すれば其餘は水分なり
と知る可し尚麥酒の純否を吟味するの方法は葡萄酒及びブランデー酒と大同小異なれば以
下の各試驗に就きて參考すれば或は思ひ其半に過ぐべけれども茲にホツプを吟味するの方
法を示さんに左の如し
麥酒のホツプに大要するに或る松皮、カツシア、千金艸、アルセム、水三葉、ラツクチユ
カリユーム、ビクリン酸などを以て苦味と與ふれどもホツプの近成分と同じくタンニン、
膠、殊に香氣ある揮發性の油質などを含まざるが故に更にカンナビスインジカ、ゲールホ
ートエキストラクト、カルムス根の揮發油などを加ふと云ふ斯の如く種々の物質を加へ混
する時はホツプに代用するに足れども熟練の鑑定人は香味に由りて能く識別すべしワグ子
ル氏の説に由れば麥酒の混物中に有毒なるもの多し中に就てピクリン酸其一例なり(此ピ
クリン酸は石炭のタール或はインジゴなどの有機物に強硝酸を加へ煮て製したるもの)此
ピクリン酸の有無は麥酒中に白色羊毛を浸し置くこと二十四時間にして取り出しアルコー
ルを以て此羊毛を洗ふにホツプ製上等品なれば羊毛は褐帶灰色となりピクリン酸製なれば
羊毛は微黄色となると云ふ
葡萄酒の贋製には理化兩樣の試驗法に由るも發顯し難き混物あるもの少なからず左れば茲
に其通例の試驗法を擧げんに酒中に炭酸鉛或は酸化鉛を含むときは硫化水素或は硫化アン
モニヤにて之を吟味すべしプルース氏の説に從へば酸化鉛を含むの疑念あるものは之を煮
つめて硝石と共に燒き其殘物に硝酸を加ふれば酸化鉛を含むものは溶解するを以て知るべ
しといふ又酒中に銅及び亞鉛を含むことあり是れ金屬製の龍口及び吸管を通過するときに
混じたるものにて至毒なれども之を吟味するには硫化水素或は硫化アンモニヤに由ること
尚鉛分の吟味に異ならず又ボルドーは佛國有明の葡萄酒なれば之に擬するが爲めに尋常の
酒中に明礬を混ずることあり之を混ずれば沈澱を進め澁味を增し酒色を美にし且運送に適
することボルドーに異ならずと云ふ此混物を吟味するに數法ありてベーランド氏の説に酒
中に石灰水を加へ放頓すること二日間にして明礬なきものは酒酸加里或は琥珀酸加里の沈
澱を生ずれども若しも明礬あるときは既に酒酸礬土の形となり此等の沈澱を妨げて生ぜし
めずと云ふ又同氏の説に酒中に硝酸重土或は鹽化バリユームの稀溶液を加へて生じたる沈
澱を硝酸或は沸湯に投じて溶解することあらば明礬を混ずることを證明すべしと又ラツセ
イン氏の説に酒中の明礬假令へ少量なるも之を煮沸すれば必らず酒を濁らし其冷るに及べ
ば不可溶性の魚眼となりて器物の側面に沈澱し集めて燒くに純粹の礬土となるべければ酒
中に明礬の有ると否とを吟味せんには之を煮沸するのみにて足れり其明礬の分量が酒量の
千分一或は萬分の二三にして其種類が加里明礬なるもアンモニヤ明礬なるも共に煮沸すれ
ば必らず濁り否らざれば何時まで煮沸するも濁ることなしと云ふ又佛國の葡萄酒中には
往々にして百分の二三の硫酸(硫酸エーテルの有樣にて)を含むこと多く是れは可溶性の
バリユーム鹽類に反應を顯はさゞるに由り注意して化学的の試驗をなさば其硫酸と發顯す
べし
凡そ葡萄酒の赤色は人造の着色に係るもの多くして其材料には大概植物質を用るを常とす
即ちカンピシ木(英名ロツクウードにしてカンピシ木は蘭語なり以下皆之に同じ)カラツ
プローヅ、ベルグフリールベス、ヅワルテフリールベス、蘇黄等是なり此等の植物質を以
て着けたる色と天然の葡萄酒の色とを識別すること最も困難にして從來種々の試驗法あり
と雖ども大概不充分なればジヤコツプ氏は永年の經歴を積みて別に一法を案じ出せり其法
に由れば二グラムの葡萄酒に二グラムの明礬溶液を併せて十二乃至十六滴の炭酸アンモニ
ヤの溶液を滴加すれば種々の色を有する沈澱となるべし之を礬土ラツクと名づく別に次醋
酸鉛に由りて種々の色を有する沈澱を生ぜしめ兩者を比較するに左表の如しと云ふ
混物名目は 礬土ラツクなれば 次醋酸鉛の沈澱なれば
純粹の葡萄酒 稍色を帶びたる灰色 青帶灰色
ロツクウード 美麗なる暗紫色 弱き青色
リギユステルペス 透明緑色 弱く汚れたる緑色
カラツブローズ 石盤樣の暗灰色 汚れたる灰色
ペルグフリールベス 透明紫色 草緑色
ヅワルテフリールベス 青帶灰色 弱く且汚れたる緑色
ラツカムーズ 洋紅色 青灰色
蘇黄 同上 青色
又アニリンにて着色せる葡萄酒なれば之に獸毛を浸すこと數分時間にして取出すに赤色と
なりて水にて如何に洗條するも其色を失ふことなきを以て知るべし(未完)