「洋學の前途に望む所あり」
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本文
洋學の前途に望む所あり
小野友次郎
漢學といひ洋學といひ何れも外國傳來の學問なれども既に之を採用して我文明に益せんと
する以上は其學問の許す限り之を人事の實際に適用せざるべからず何となれば學問と人事
と相接するの疎密遠近は大に文明の進歩に關係するものなればなり其實際適用の中にて文
字を日常の讀み書きに用ゆるの法亦輕々視すべからざる箇條なれば今日洋學流行の世に當
り橫文字は如何にして書き其手本には何體を用ゆべきや漢字なれば楷行草の三體ありて從
來子供の手習に兼用したれども橫文字に在りては只漢字にていふ草書の一體あるのみ尤も
版本新聞等の文字は恰も漢字の楷書に當ると雖ども此楷書は獨り印刷活版に用ゐて手を以
て紙に書くべきものにあらざれば橫文字の手習には楷書なしと云ふて可なり
今後愈々内地雜居の世となりて商賣に交際に彼我の關係日に繁密なるに至れば或は橫文字
を以て音信を通し或は手紙を贈り或は來状を讀み其他證書受取等橫文字讀み書きの必要は
大に增すべきことにして其橫文字は固より手を以て紙に書くものなれば洋學の士は今より
橫文字の手習を勵むこと最も大切なる可し唯四角なる印刷文字にのみ目を慣らしては後日
大なる不覺を取て悔ゆることなしと云ふ可らず横文字手習の必要以て知るべきなり
然れば今の洋學者に望む所は橫文字の手習を以て足れりとするや印刷用の楷書即ち刊行の
原書を利用するの點に於ては更に所望なきやと尋ぬるに是亦大に然らず同じく印刷用の楷
書を利用するにても之を以て徒らに舊史故典を講じ却て當世外國の事情に迂濶なるの〓な
きにあらず橫文字を以て外國の情を審にし當世の務を明にせんと欲すれば歐米に新著新聞
新誌の發兌日に其幾千萬種なるを知らず近くは東京橫濱にも數種の新聞紙あり然るを今の
洋學者にして其一種をも讀まず以て目に一英字なきものと淺識寡聞の愚を同ふするの人あ
るは甚だ以て合點の行かぬことなり今や日本國内にて新聞を見て日新の事情を知るの要は
普く人の許す所にして其有益無益の議論は業に已に經過して正に實行の最中なり而して橫
文字の新聞も日新の事情を記し然かも其記する所は廣く歐米諸國に渉て新知識を與ふるの
大なるものにして其文字は四角なる印刷活字を用ゐ文の易く事の重要にして實際に有益な
るは又舊史故典の比に非ず然るを今の洋學者が其一己特有の利器即ち橫文字を解するの能
力を利用せずして自から甘んじて洋學を修めざるの徒と伍を爲すとは抑も何の心ぞや學者
の迂濶のみならず其不面目も亦極まれりといふ可し言論出版の自由少なしとは今の洋學者
が最も愚痴をこぼす所にあらずや然るに日本にて發行する橫文字の新聞紙は其治外法權の
下に立つの故を以て立言の自由自在なる日本新聞紙が之を言ひ之を記さんと欲して能はざ
る所を公にして少しも憚る所なきものあり學者は何を苦んで之を利用せざるや凡そ日本社
會の事情より政府の内治外交の事に至るまでも京濱の橫字新聞には巨細を記して隔靴の歎
なく往々我輩をして大に時事を覺らしむるもの多し盖し我輩が此橫字新聞を讀んで之を解
するは他なし橫文字を知るの故にして或は我輩の身に得たる一種の特典と云ふも可ならん
顧ふに日本國内我輩と同じく橫文を解するものは斗景箒掃其幾千萬人あるを知らず此多數
の洋學者は果して我輩と同じく此等の特典を利したるか若しも之を利せずして無學文盲の
輩と拙を共にしたらんには是れは洋學者自身の罪にして愚痴を訴ふるの限りに非ず去れば
今の洋學者は能く當世の急務を察して先づ手始めに橫文字の手習を勵み橫文字の新聞紙を
も讀み其學問の主義は高きも低きも都て人事の實際に適用することを忘れず以て日本文明
の進歩を推輓するの工風專一なる可し古に明にして今に通ぜず以て漢學者流の尤に傚ふ可
らざるなり
夫れ漢學の我國に行はるゝや久し中世以降二千餘年上下擧て漢學の門に入り漢學は殆んど
日本固有の學問なるが如くにして其間大家碩儒の輩出すること陸續踵を絶たず實に盛なる
ものと云ふ可し此盛なる勢の中に居て彼の漢學者流が事の實用に眼を着け左國史漢古文の
研究をば第二の位に置き、せめて清の語を知り清の文を讀み以て近時の事情を審にするこ
ともありしならんには其日本の文明を益したるや决して少なからず現に今日に於ても必要
缺く可らざるものならんに成立彼れが如く久しく流行彼れが如く廣くして其實用を爲すは
齢三十年なる洋學の萬分一にも及ばざるは何ぞや只其學問を人事の實際に適用せざるの致
す所なるのみ盖し洋學者たる我輩が其人を目して腐儒とし其書を名けて死文とし日本文明
の爲めに或は忠告し或は攻撃して止まざるも其漢學者が古に明にして今に暗きが故なり然
るに今の洋學者の中にても能く羅馬希臘の歴史を暗誦すれども今日西洋の事情を知らずミ
ル、スペンサアーの書を讀むには五行共に下るの勢あれども一葉の文通には大に時を費す
などの奇談あるは即ち漢學者流の尤に傚ふて二の舞をなすものと云ふ可し其後世子孫の譏
を招くこと啻に今日我輩の漢學者流に於けるの比にあらざる可し