「英學を知らざる者は官吏たる可らず」
このページについて
時事新報に掲載された「英學を知らざる者は官吏たる可らず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
英學を知らざる者は官吏たる可らず
明治十八年十二月我政府の大改革を施行するや官守を明にし選叙を定め繁文を省き冗費を
節し規律を嚴にするなと各省の事務を整理するの綱領凡そ五箇條を示したり爾後今に至る
まで一年有半この五箇條の綱領は豫約通りに行はれて政府も大に滿足せしや否、我輩の未
だ祥知せざる所なれども聞く所に據れば右五箇條の中に就き選叙の事は當時政府の最も鋭
意したる所にして選叙の法未だ定まらずして人各々知る所を擧ぐ而して成學の士は或は其
進む所を失ふ是れ皆制度の未だ備はらざるものにして勢の免れざる所なり今管制一たび定
まり官仕限あるに及んで選叙の法仍ほ設けざるときは情弊の至る所其失に堪えず而して行
政部局其人を得るに由なからんとす云々の達旨もあり當時我輩は政府が自から其情弊を知
るの明に服し爾後今日に至るまで領を延べて其選叙法の實施を待ち居る程の次第なれば政
府に於ても早晩之を實施するは我輩の斷信して疑はざる所なり盖し我政府に於ては嘗て選
叙法の大要を擧げて仕進は試驗に由らしむる事、試験に學術試驗と普通試驗を分つ事、學
術普通試驗の外に專科試驗の法を設けて會計官吏は簿記法を試驗し外務官吏は外國語學を
試驗し其他夫々技術を試驗する事等の箇條を示したることもあれば其意試驗法を以て人を
選叙するの趣向なるや疑を容れず夫れに就き我輩が今より政府に希望する所は此選叙法中
に凡そ仕進を望む者は必ず英學に通せざる可らず云々の箇條を加ふるの一事に在るなり抑
も英學は萬國普通の學にして西洋の文を講じ理を推すに就て此學を知らざる可らざるは勿
論なれども我國にては追て内外國人の内地雜居を許し商賣共に營み政治法律共に語るの時
節に會し然かも其時節には何國の人に交はるにも萬國普通の英語を用ゐざる可らざるの事
情もあれば今の政府に入りて事務を取扱ふ者は獨り外務官吏のみに限らず何人にても英學
の心得なくては叶はぬことなり現に今日の實際に於ても政府の上位に立て心を役する部分
の人は勿論、或は其下流に居りて體を役する人々にても目にABCなきが爲めに毎度不都
合を感ずるは人の能く知る所なり例へば彼の巡査の如き官卑くして給少なく其事務は心を
役する部類よりも寧ろ體を役する部類に屬する者なれども標札名刺商店の看板等にさへ英
文を用ゆる今の世の中に在りては英學を知らざるの不便鮮少に非ず况して繁華なる都會の
巡査などは徃來の西洋人に物を問はれ或は一寸したる内外人行違ひの喧嘩を制するなどの
折々に毎度當惑する其苦痛は如何ばかりなる可きや我輩の毎度氣の毒に存ずる所なり卑官
少給の巡査にして其情實果して此の如くなりとすれば之より以上の官吏にして何は扨置き
英語の心掛なきに於ては獨り當人の不便のみならず事宜に因りては或は政府の體面に關係
することある可し左れば我輩の極度の希望は嘗て英學の心得もなくして今の政府に立つも
のは所謂老朽務に堪へざる者の部類として之を一掃するの一事に在れども斯くては例の情
實論に對して穩かならざるの掛念もあるが故に從來の官吏丈けは先づ以て其儘にして擱く
も追て政府にて選叙の法を設けて仕進の士を試驗することとも爲れば此選叙法中に苟も官
吏たらんと欲するものは必ず先づ英學に通せざる可らず云々の箇條を加へ今まで政府に在
るものへは進んで英學を修むるの要を示し今より政府に入らんとするものは既に英學を修
めたるものに限らしむること我輩が我政府の爲めに希望する所なり政府は從來選叙の法な
くして情弊の至る所其失に堪えざることを自悟して一年有半の前日より追て其選叙法を定
むることを明言したれば今頃は敏捷にも或は既に其規則節目等を制定して我輩と同案なり
しやも知る可らざれども我輩は一方には政府に向ひ一方には仕進の志ある者に向て念の爲
めに今より斯くは一言を呈し置くものなり