「私設鐵道發起者諸君に告ぐ」
このページについて
時事新報に掲載された「私設鐵道發起者諸君に告ぐ」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
私設鐵道發起者諸君に告ぐ
近來鐵道敷設の説日本全國に蔓延して各地の有志者より鐵道私設の義を其筋に請願するも
の陸續として引きも切らず即ち鐵道の氣運の熟したるものにして國の爲めに誠に目出度き
次第なれば其筋の人々は成る可き丈けの手都合を盡して速に其願意を聞き屆けられんこと
我輩の旦夕希望する所なれどもつらつら今の實際の事情を察するに其筋の人々も鐵道請願
者の願意を達するに當りて聊か當惑の箇條もあるものゝ如し元來鐵道は文明の事業にして
之れに着手するに當りては精密なる思慮と深遠なる見識とを要するものなり例へば地勢の
事に就ても日本は歐米各國の例を以て論ず可らざるものありと申すは日本の國状たる細長
にして山脈中を貫き中高くして兩側低く恰かも馬鬣状を爲すが故に中央より兩海岸に至る
其勾配甚だ急に河流の速力亦隨て急暴なること殆んど他國に類例なき程にして此河流に加
ふるに各地鐵道の由る所、大抵山脈あらざるはなく之を削平し之を貫通し之を上下して線
路を架設するには豫め其地質をも檢（手偏）査せざる可らず又米國などに於て當初鐵道を
敷設したる時は千里の沃野無人の境を冐して其工事を開きたるが故に始めは非常に不利益
にして終りは非常に利益あるの順序なれども目下我國にて鐵道を敷設する筋道は孰れも相
應の人口を有する塲所にして開業早々餘り損耗もなかる可しと雖ども左ればとて年を經る
に隨て非常の利益を生ず可しとも思はれず即ち我國と米國と鐵道經濟の事情を異にする所
以にして鐵道發起者の豫め注目す可き所なり其他極直接の事に就ては線路の測量運送貨物
の多寡等最も精密なる調査を要する筈なれども近來各地方にて鐵道敷設を發起し又之を請
願する人々の中には世間の囂々たる鐵道論に浮かされ或は株流行の興に乘じて一條の鐵道
線を發見するや否や工事の難易、運送貨物の多寡等精密なる調査を爲すに及ばず漠然たる
目分量を以て此鐵道は年利凡そ何分何朱の利益ありとて直に起工を請願するものさへなし
とも云ふ可らず酷に之を評すれば地租改正の際田地の丈量にも當惑したる位の人が今や進
んで鐵道の工事を發起し覺束なき調査表を持參して起業の許可を出願するやうの塲相も少
なからざるが如き次第にして其筋の人も斯かる請願書に接しては何の苦もなく之を許可す
る譯にも參らず如何に政府が鐵道に熱（幸＋丸＋、４）心なればとて是れには少しく當惑
し居るやに聞けり即ち我日本國にて私設鐵道論の勃起せし以來凡そ一箇年餘の歳月を閲す
るも其筋に於て今日尚未だ公然たる許可を與へざる所以の一端にして我輩が今備を君子に
求むるの意を以て云へば其筋に於ても早く斯くと心附きて鐵道請願者に其然る所以を諭し
其請願書の中此處は疎漏なり、其處は不行屆なり、工事の測量には凡そ何程の精密を要し
て運送貨物の多寡は云々の調査を遂げざる可らず云々とて各地方鐵道請願人の納得するや
う詳細に懇切に説諭して其要領を得せしめんこと誠に希望する所なれども今の文明世界に
在て社會上經濟上にも大關係ある鐵道の工事を發起せんとするの任に當る人々は人の指導
を待たずして自から其事の複雜不容易なるを悟り其筋に向て公に之を請願する前に先づ私
に十分の調査を遂げ線路の測量貨物の多寡等に於て細かに近く意を致すは勿論、或は遠く
大に眼界を廣げて工事落成汽車運轉したる其後に其經濟を如何にして如何に之を管理す可
きや豫め其邊の事情にも注意し鐵道事業を視察するに顯微鏡と望遠鏡とを互用して遠近細
大着眼の行屆かざる所なきを期し然る後にて始めて之れに着手するこそ肝要ならん試に見
よ我政府にては曩きに中山道鐵道を起工したるに中道其工事の案外に困難なるを發明して
遂に之を中止したるに非ずや政府の起業其測量調査の十分に行屆きたるにも拘はらず實際
に臨んでは徃々此くの如きことありとすれば民間の事業に於ては假令へ十分の調査を遂く
るも尚此等の不都合なきを必す可らず況んや其測量調査の甚だ不十分なるに於てをや實際
に臨んで種々の故障を生ずること我輩の甚だ掛念する所なり故に今我輩は我政府が鐵道私
設を許可するの遲々たるを惜むと同時に各地私設鐵道の發起者諸君に向て其起業請願に先
ち工事其他萬端の實測を成る可き丈け精密詳細にせられんことを希望するものなり