「強兵の手段は陸海直接の固めにのみ限らず」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「強兵の手段は陸海直接の固めにのみ限らず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

強兵の手段は陸海直接の固めにのみ限らず

日本の國權を護持するに陸海兵師の固め嚴重ならざる可らずとは我輩毎度の夙論にして明

治二十年の今日此夙論の實際に行はれ來りたるは誠に以て滿足の外なし全國鎭營の兵制を

改革して且つ師團の數員を増し海岸各所の要害には逐次砲臺を築造し對馬を始め須重の諸

嶋嶼にも分營を設け將た海面の一方には鎮守府の區劃を定めて軍艦々隊の部署を統一にし

其外甲鐵艦水雷船の新造注文より陸海諸兵學校の振作に至るまで舊日本國兵備の面目を一

新せしむるものにして國權確立の基礎彌々以て堅固となるは邦家安康の吉兆此上なしと謂

はざる可らず然れども大砲と云ひ又軍艦と云ひ此等攻防の器具なるものは死物にして死物

を活用するは陸海軍人の働き一つ、兵の強弱は器の利鈍の其外に專ら兵師訓練の巧拙に因

る事明白の條理にして此點より論ずる時は軍人の規綱練操を嚴肅にするの必要は言ふ迄も

無く國民社會より大に軍人に名譽を捧げ、名譽の歸する所に其生命を擲たしめ或はその位

地報酬を裕かにして國事の盡力に其餘念を奪はしめざるやうの工夫大切なる事是れ亦申す

に及ぶ可らず然れども唯單に此等の手段を盡し以て強兵の務めに拔目なしと思惟するは大

の誤り、既に兵備に依頼して社會人民の安寧獨立を全ふし得る恩恵あらば社會人民の務め

としては其事々物々、實際自家に差支へ無きを限度とし己れを枉げて兵備の用ゐに供すす

るの覺悟無かる可らず何噸の大砲何馳力の軍艦壯偉ならざるに非ずと雖ども將た何萬の陸

兵何百の海軍強大ならざるに非ずと雖も先立つものは金にして盡くるものも亦金なり富力

限り有るの國民なれば成丈少しの金を費して成丈多くの兵備を買はざる可らず之れを爲す

の法は唯社會の事物その事情の許す限り之れを兵事に實用すべきのみ

例へば道路橋梁の修繕法の如きものも、其業の官の手に係ると民の手に屬するに論なく事

の表面に於ては商賣交通に密接の關係こそあれ兵備には差當り縁故の〓きものとして專ら

經世利益の點より其工事に着手するなれど軍國の務めとしては甚だ宜しからざる事ならん

今日にても兵師、訓練の爲め地方に行軍する時其道路は充分に徃屆き眞事に以て文明國の

道路たれども肝腎なる橋梁の邊に至りては幅員遽に狹溢し瓢箪の中點前後膨れて一箇所の

頓縮する爲め隊列を亂されて非常の〓雜を來す如きは鳥渡世人の氣が注ざる小事なれども

最初此橋梁修繕の節建築者若し軍事の點に心掛け道と橋との關係は云々すべしとの考案も

ありたらば別段の入費を要せずして滿足なる橋梁を作ることは容易ならん又道路とても同

じ譯にて徃來坦途十里直線の工事は美なれども徃々曲り角の邊に至り急激の轉廻ある爲め

に軍列を妨ぐるもの尠なからずと左りとは折角なる工事なれども軍人より之を視れば其不

注意不信切を憾むが當然なるべし此等は消極の例なれども更に軍國の需ゆを計らば社會の

人事に別段の害なくして、注意の有無大に國の兵備に關係するもの尠なからず譬へば民間

にて使用する荷車の類の如きも平生の所用は專ら商品貨物の運送を爲すに止まれども一朝

干戈の事起らば之を軍事に轉用し彈藥兵粮武器銃砲の搭載に充んどの覺悟もあらば全國荷

車、車輪の大小車軸の長短等を畫一にし平生は商用、事あらば軍用と夫れ夫れ機に應じて

轉換するも之れが爲め荷車を作るべき費用敢て嵩むに非ず唯畫一の令を施す其間に多少の

面倒はあらんなれども素破、事ありと云ふ曉に全國の商車悉く化して軍車と爲るの利益は

此の面倒を償却して更に餘剰あらんと思はるなり

右は一小部局の話しにして兵備上に左迄の關係なしと云はゞ夫れ迄の事として別に異存も

無けれど差當り日本の兵備上に重大の利害あるは鐵道軌條の廣狹論なり目今の形状到る處

に鐵道敷設の企てあらざるは無く日本鐵道會社が東京より青森に達すべき線路中央政府が

着手したる東海道の線路、山陽道鐵道會社が神戸より馬關までの線路並に目下創設中なる

九州鐵道の線路を別にし其他何會社何線路の工事都て竣成に至るものと看て偖此等諸線路

の軌道を廣軌にするか狹軌にするかは日本の兵備上實に以て重大の關係あるもの决して忽

諸には附す可らず他の考へは暫く措き兵備上狹條軌道の不都合なるは歐米の定論にして日

本今日既成の線路は乃ち此狹軌道のものには非ずや貨物の運搬乘客の徃返等經世の利益の

みより考察すれば狹軌道にて別段の不便宜は無からんなれども鐵道を兵略上に活用する點

より言へば日本の軌條を狹隘に限りたるは决して得策と爲す可らず論者中或は今日までの

既成線路が狹軌道なりといふに牽かされて廣軌道を非とするものもあらんかなれど寸分の

差は矯め易し千里の懸隔に至り遂に手の付けどころ無きに煩悶するは智者の事と謂ふ可ら

ず又實際の都合如何ともし難しとならば既徃の線路は其儘狹軌道に差措き新たに敷設すべ

き部分丈を最初より廣軌道と定め追て既徃の狹軌道をも時を計らひて廣くするの工夫にせ

ば左して損失のあるべきにも非ず只兵備擴張の今日鐵道を以て商賣營利の傍らに兼て護國

強兵の要具と爲さん考へならば軍用に適せざる狹軌道を他日に設け置て一朝事あるの日軍

人兵士より當年の不注意不信切を怨まれざらんこと我輩が預め今日の官民全體に希望する

所以なり