「教育費の節減は如何」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「教育費の節減は如何」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

教育費の節減は如何

方今我國財政の有樣の資本の所在一方に偏して工商の活社會には金融の活溌を見ず自然に

民業の衰微を致すに付ては税源を見出すことも甚だ易からず然るに文明の今日に居て國を

立てんとするは大に國財を要することにして就中兵備の如きは一日も之を等閑に附す可ら

ず内を顧れば國財の出所に乏しく外を見れば其要甚だ急なり左れば百般の政費を枚擧して

其要の緩急を比較し苟も少しく緩なりと認るものあらば情を忍んで之を捨て以て焦眉の急

に奉ずるの外なかる可し扨節減と决したらば其方法は一ならず例へば官吏の數を減じ俸給

の高を殺き不急の建築を止め廢す可きの保護を廢する等皆その手段にして此外維新以來西

洋の文物を採用するに當り力を一方に用ゐて偏重の姿を爲し之が爲めに政府の費用を嵩め

人民の負擔を増したるもの少なからず是等も亦節減の部内に計へて然る可きものならん其

一項を擧れば教育制度の如き即ち是れなり盖し人民を教育するは開化を進め文明を促がす

ものなれば固より非難すべきにあらざれども全國一般農工商業の有樣に注意し人民生活の

度合を視察し國の教育法をして正しく國の貧富に適せしめ以て偏重偏輕の弊を避るの工風

も亦甚だ大切なる可し明治十六年度の國税地方税區町村費及び賦金を見るに徴収現高九千

七百四十六萬六千四百七十三圓にして内文部省費及び公立學校諸費に充るもの合計九百四

十二萬七千五百圓の外に公立學校諸費の爲め特に収入せしもの即ち寄附金授業料保育料な

ど合計三百五十二萬二千七百四十二圓とあり左れば該年度中に人民の手を離れて政府の筋

に入りたる總額は一億九十八萬九千二百十五圓にして内千二百九十五萬二百四十二圓を教

育費とす即ち總額の八分一以上を占むるものにて若しも此教育制度なしとせば人民の負擔

は直に八分一以上を輕くすることならん又教育費を以て該年度の陸海軍費に比するに共に

教育費に及ばざるは西洋各國にても未曾有の一例と云ふ可きものならん

右の如く教育費が他の政費に比して偏重の姿を呈したるは畢竟我國にて文を重んずること

甚だしく漸々に之に深入して扨て今日の現状を見れば國の貧富の度に照らして教育法の洪

大に過ぎ又丁寧に過ぎたるの事實に由て然るものならん文明の一國を立るには固より文學

の士人なかる可らず文士を得んとするには之を養ふの學校なかる可らずと雖ども抑も社會

の風潮、文明を催ふし文明を重んずるの時節に於ては後進の少年士人は自から奮て文に赴

き色々の方便を求めて遂に其目的を達するものなれば必ずしも獨り政府の力を用ゆるを要

せず富貴の子弟は外國に留學する者もあらん或は外國の學者が來て教るものもあらん内國

の私塾家塾にて教育法の立つものもあらん政府直轄の學校を設けざればとて實際に差支は

なかる可しむかし封建尚武の世に武士が武藝に熟したるは必ずしも諸藩の政廳にて大に金

を費し政廳直轄の武藝道塲を設立したるが爲めにあらず唯世間一般武家の風潮が武を重ん

ずるが故に子弟の方向も自から武邊に赴き官立道塲の外に樣々修業の方便を求めて目的を

達したることなり今や天下の風潮は專ら學問教育の方に流れ之を留めんとして止む可らざ

る其勢はむかしの武藝の流行に異ならず此時に當り官の筋に於て特に金を費さゞるも唯適

宜に注意さへすれば文物衰頽の憂は决してある可らず本年度の豫算を見るに文部省所管の

歳費八十八萬八千三百二十六圓の内學校の爲めに費すもの五十六萬五千三百八十圓とあり

我國の資力を以て見れば教育法の最も丁寧なるものと云ふ可し斯る大金を費して陶冶し得

たる其專門の學者とは何の用に供す可きや我輩の見る所にて今の人事の有樣と學者の數と

を比較すれば决して學者の不足を覺へず然らば則ち社會實物の進歩を今のまゝに差置きて

今後いよいよますます人物の増加することもあらんには同時に其人の苦痛も亦増加して天

下後世の爲めに却て安からざる患の生ず可きも測る可らず實に恐ろしき事にこそあれ然り

と雖も立國の元素は樣々にして學校教育の高尚なるものも亦是れ一種の要具なりと云へば

我輩も敢て之を非するにあらず斯る塲合には年に僅に數萬圓の金を費し極めて規摸を小に

して極めて教を高くするの工風もある可し或は眞實に學者の入用あらば俊英の少年を撰ん

で外國に留學せしむるも可なり留學四年の費を旅費共に五千圓とするも毎年五萬圓を投じ

て毎年十名の學者を得べし何れの點より見るも毎年五十六萬の大金を消費して官立の學校

に生徒を養ふが如きは今の日本の國力に於て我輩の賛成すること能はざる所なり

又地方の教育の如きは我輩多言を用ゐず唯衣食足りて教育興る可しと云ふの外なし師範學

校に生徒を教育して小學教師を作り出し扨その教師が小學校に奉職するに當りて之に給す

る手當ある可きや最近の統計に小學教員と小學生徒と其數を比例したる割合を見るに英國

にては教員一人に付生徒四十人佛國の宗教小學校は教員一人に付生徒四十七人その尋常小

學校は四十八人墺地利の公立小學校は四十九人獨逸及び匈牙利は共に五十九人にして露國

は六十三人とあり即ち露國の教育法が最も簡にして英國が最も丁寧なるが如くに見ゆれど

も日本國は今一歩を進め明治十六年には教員一名に付生徒三十五名、十七年には三十三名

となりて漸く教員の増加を示せり夫れ是れの故にや公立學校の所費を生徒の數に比例する

に西洋各國の中英米兩國を除けば我國の所費最も高く生徒一名に付ての割合明治十年に二

圓五十四錢なりしものが十四年には増して三圓六錢と爲り十七年には三圓廿五錢に上りた

り十年の二圓五十四錢も决して低きものにあらざる尚その上に次第に増加の勢ある最中に

一方より民業の進歩如何を見れば物産別に大に興りたるにあらず民の衣食次第に餘りある

にあらず衣食餘りを告げずして教育進歩の姿を示す賀す可き乎弔す可き乎大方識者の考案

に附するのみ