「養蠶論」
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時事新報に掲載された「養蠶論」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
養蠶論
日本富國の策は唯殖産を奬勵するに在るのみとは人の能く言ふ所なれども今單に殖産との
み云ふて其殖産の種類を撰ばざるは策の得たるものに非ず凡そ今の文明世界に在りては大
に商賣貿易の事を談ぜんとすれば狭き一國内を目當てとせず茫々たる商賣世界を控えて廣
き世界萬國を相手にすること肝要なるが故に富國の根本たる殖産を奬勵せんとして其種類
を撰むにも亦先づ此邊に注意して國の殖産と世界各國の貿易とをして恰かも密接の關係を
保たしむるの覺悟なかる可らざるなり窃に按ずるに我國封建の時代には割據籠城動もすれ
ば糧を以て第一の依頼品と爲したる由來よりして當時の人氣頻りに米作を重んじて川の濱、
山の隅、高燥の處には溜池を作り濕地には乾水の法を立て種々樣々に工風して日本全國あ
りとあらゆる耕作地は手段の屆く限り之を稻田に變じて米作を奬勵せしかば米を作ると云
ふことは其収穫の利を外にして別に何か榮譽らしき思ひを爲し苟も農家の名あれば米を作
らざる者なく米作と農業と字を異にして意味を同ふし米を作らざる者は農にあらずと云ふ
が如き風潮にして今日に至るまでも米は日本國産中の首位を占むることとは爲れり畢竟封
建の遺風にして斯くまでに米作を珍重したることなれども元來米その物は日本支那朝鮮等
米食國人の需用に供するのみにして歐米諸國人の常食にあらざれば其需用も亦甚だ少なく
時に東洋の米を買入るゝは之を以て製造所用の糊を製する位に過ぎずと云へり左れば東洋
米の豊凶は唯東洋の米市塲に影響するのみにして紅海以西の市况に感ぜざるのみならず或
は此東洋諸國の中にても其市塲は區々互に相分立して日本の米價と香港西貢邊の米價とは
其間に抑揚の脈絡なくして云はゞ米の商賣區域は唯東洋の國々各自に限るものなりと申し
て可ならん斯かる事の次第なれば歐米諸國にて米を需用するの額は誠に少小なるものにし
て東洋諸國にたまたま餘剰を生じて倫敦其他の市塲に輸出することあれば忽ち供給の度を
超へて價の下落を來たすのみならず元來米の品柄は嵩張りて運賃を要すること少なからざ
るが故に遠路これを海外に輸出しては毎度得失相償はざるを常とす即ち米は狹き東洋一國
内の商品にして世界の貿易に適せず外國商賣の今の世の中に在りてはかたゞた以て富國の
産物と爲す可らざること明白なれば今より日本國の爲めに謀るに永久米作の舊法のみを守
り米を以て第一等の國産物と爲し置くは我輩の賛成する能はざる所にして今日の急務を云
へば在來の畑地は無論稻田をも愛〓まずして漸く桑田に變ずるの一策あるのみなりと信ず
るなり
抑も養蠶の業は日本の風土気候に適して繭の性質、絲の品位敢て他に讓らざるは今日世界
の公評にして或は世界の蠶業國と見做すも可ならん國土の蠶業に適すること此の如くにし
て其蠶業と外國貿易との關係は果して如何と尋ぬるに蠶絲の販路の廣きこと彼の米などの
比に非ず歐米諸國の市塲に在りても蠶絲は常に第一等の貿易品たるが故に我國にて今後大
に蠶絲業を奬勵するは富國の道に於て最も慥にして最も見込あるものと云ふべし或人の説
に絹絲は人身の感觸に快からざるものにして絹布に慣れたる日本人にても直に之を肌にす
るを嫌ふ者あり此一點に於ては木綿に及ばざること遠し又その外見の如何に就ては近來歐
米諸國にて毛織の品物次第に精巧美麗を致して人の目を悦ばしむるもの少なからず左れば
今日の處にては好奇の人情一時絹布を珍重するが如くなるも各地の蠶絲業漸く發達して品
物の供給ますます増加するに至らば之を珍重するの情も次第に衰へて復た今日の顔色なか
る可しと云ふ者あれども此説は未だ以て絹絲の榮譽を損害するに足らず絹は人の肌の感觸
に適せずと云ふも是れは唯直接一毎丈けの話しにして人の衣服は必ずしも肌に接する部分
のみにあらず否な其接する所に僅に小部分のみ又毛織物が次第に精巧に進みたりと云ふも
絹布の製造法も亦同時に進歩す可ければ精巧は毛織の專有にあらず故に我輩が絹の爲めに
辨護する所は唯これを羊毛に比して其質如何の一點に在るのみ絹の質の輕暖にして光澤色
彩の美麗なるは所謂織物の大王にして毛布綿布の如きが如何に新工風を凝らすも遂に北面
の輩たるを免かれず絹布の運命萬々歳今後何ほどに其供給を増したりとて唾棄せらるゝの
恐なきは世界の人情に訴へて其裁判に依頼す可きものなり且世界中に於て風土氣候能く樹
桑養蠶に適して人民も亦能く業に慣れたる地方は其部分甚だ少なかる可ければ今より我國
にて何程に蠶絲業を主張して假令へ全國悉く桑田に變ずることあるも世界各國の需用を相
手にして品物の賣口に窮するが如きことなかるべきは我輩の萬々保證する所なり即ち我輩
の所見に於て今日の策は世界の商賣に關係なき彼の米の耕作などに戀々せずして一向に蠶
絲業を奬勵し以て富國の道を開くの一事あるのみと信ずる以所なり