「取引所條例」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「取引所條例」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

取引所條例

豫て風説のありたる取引所條例は一昨十四日を以て公布となり本年九月一日より彌々施行

の筈なりその細目の議論は偖置きこの條例の特殊なる箇條は第一に株式組織の變更して仲

買組織となりたる事と第二に從前の習慣は物品取引と株式取引と夫れ夫れ別れ居たるを今

回改めて之を一つの纒めたる事即ち是なり但し株式組織を改めて仲買組織となすの實際に

利益あるや否やの論に至りては過般來ブールス論とて世上に喧しくこれに關して我輩の意

見を紙上に開陳したる事もあれど此の條例發布の今日に至りては今更之を如何んともす可

らず又重要諸般の商品は更なり信約無形の株券を混同して一手に取引所の賣買に任せたる

集權の利害如何んも今敢て爰に論ずべきの必要なし次に此取引所に於て徴収すべき賣買取

引の手數料と政府がこれに對して〓行すべき税金の二つは今の米商會所若くは株式取引所

の制規に比して如何なるべきか隨て實地應用の際に生ずる利害の點も未だその細則の發表

を見ざれば我輩が之に向て論議する能はざるは勿論なれど唯此條例を一讀して著しく目に

留まりたる其要點を言はんならば第一には總則の第一條「取引所ハ商業上ノ取引ヲ便利ニ

シ市價ヲ平準ニシ」云々までの文字は如何にも其通りにして從前の米商會所と云ひ株式取

引所と云ひ市價を平準にして社會の便利を増せばこそその投機業の弊害あるにも拘はらず

設立を認許したる者なれ、我輩敢て怪まずと雖もその「商業上公正直實の風を養成し商業

上の慣習を統一維持し」云々の文字に至りては謂ゆる本條例改正の精神の存する所ならん

と雖も商賣と道徳は別物にして商賣の多き中にも信約株式の取引は射利投機の最も以て激

しきものにて其相競爭して利を事とするの間には機轉先見の外に權謀あり術策あり儲けれ

ばこそ約束を重しとすなれども損すれば則ち約を破り公正直實上の罪人と爲りて遂には其

爭論に仲裁を要するなどの塲合も多からん文明の世界に商人等が身を處するの道も亦難し

と云ふ可し左れば此條例の精神通り射利に從事する取引所の會員をして果して公正直實の

風を養成せしめ天晴れ美徳の紳商かなと其名聲信用能く、果して世に高まるべきや否やは

數年の後ち實際の形迹を見ざる限りは又如何とも論じ難し第二には右公正直實の風を養成

せしめん爲め爭論仲裁の法を設けたるは從來の米商會所若くは株式取引所に之れ無きの制

規にして役員常置員に仲裁の權利を任せ一方には其爭論の事に代言人を出すを得ずと制限

して代言人をして賣買取引の仲裁に喙を容れしめず一方には法律上の見解に關する者を除

くの外役員常置員の仲裁に對して裁判所に上訴を許さずとしたるは商賣上健訴の惡徳を矯

めて專ら各自隨意の調停に其爭を任せんとするの意ならん法の精神誠に以て完全なれども

斯くも法律の監理を離れ全く取引所役員の徳義を頼りにして今の投機商人を支配せんこと

實際に於て其効驗多かるべきや是れ亦疑を存せざるを得ず又賣買取引に違約失信を爲す者

の罸としては通常の會員は百圓以内、仲買人は二百圓以内の過怠金を科せられ一時若くは

永久に除名を命ずるは取引所役員の權利にして此項の設けある所以は役員仲裁の効驗を重

くし兼て賣買人破約の弊を防がんとするに在る者ならん之を從前の米商會所株式取引所條

例に對照するに從前は其會所限りの處分に於て株金若くは身元金額迄の過怠金は亦大に寛

典なりと云はざる可らず此の如く罸則も輕く負擔も尠く會所自身には資本金の備へも無く

只三百圓以上三千圓以下の身元保證金を差出し得る會員を相會して取引所を組織する者と

せば其實際の成迹果して如何なるべきや尚ほ第三に本條例は本年九月一日より施行するも

在來の米商會所條例及株式取引所條例は其會所營業滿期を以て廃止となすは左もあるべき

事にして現在の會所の利便を圖りたるの精神は言はずして明白なれども爰に我輩一點の疑

と申すは例へば某の地方に於て會所の營業年限は來年の九月一日に終るものとせば其會所

は從前の條例を其儘に遵奉して尚ほ一箇年の命脈あるべき筈なれども一方に同じ其地方に

在りて本年の九月一日より此新取引所を設立し米穀なり株式なり颯々と賣買を始められて

は在來會所の商賣は悉く此れに吸ひ取られて營業期限の未だ終らざるに先だち店頭寂寥謂

ゆる雀羅を張るの衰况を來すこと勿かるべきや斯る如きは今の會所株主若くは仲買の爲め

に其財産を喪ふの不利益あるべし願ふに是等は追て細則の發布に於て定まるべきものなれ

ば之を見るまでは豫め論斷す可らず唯我輩はこの條例の目的を遂行して數年の後ち今の米

商會所株式取引所の弊惡に比し雲泥相違の改良を目撃せんこと偏に所望に堪へざるなり