「京濱間の鐵道丈けは速に民有物と爲す可し」
このページについて
時事新報に掲載された「京濱間の鐵道丈けは速に民有物と爲す可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
京濱間の鐵道丈けは速に民有物と爲す可し
政府は既成の鐵道を一般に民間の人々に賣却すべし其賣却直段は凡そ云々の邊を目標と爲
すべしとの事は我輩の既に發言したる所なれども若しも至急の决議に至り兼る意味もあら
ば今姑く之を擱きて時節到來を待つ其間に我輩は爰に特別に京濱間の鐵道は速に之を民有
物と爲すべしとの説を吐くものなり從來の經驗に據るに凡そ政府の事業に於ける創設建置
の事に長じて營業經紀に短なるものゝ如し例へば鑛山瓦斯汽船鐵道等の諸事業を發起する
に當り政府の手を以てすれば資本も自由なれば其向きの工師も打揃ふて創業の第一着は目
覺ましく活溌迅速なれども扨て其業を永續して其成を守るの一段に至りては例の成規に縛
られて兎角改良の活機を失ひ時と共に其營業を伸張するの妙處を欠くの趣なきを得ず殷鑑
遠からず京濱間の鐵道事業に於ても誠に明々白々なり明治の初年政府が開國以來始めて之
れに着手して然かも立派に速に竣功したるは誠に以て御手際なれども其營業の段に至りて
は改革變更の談爾來甚だ寥々として十餘年來の新工風と申せば往復切手發行位の事に過ぎ
ず官の筋の營業には毎度有り勝ちのことにして今更何も怪しむに足らざれども今や人事の
進歩と共に鐵道管理の法を改良してますます交通の便を發達するの必要を感ずるに就き其
方便として官有鐵道賣却論を政府に獻ずるに當りては我輩は何は扨て置き先づ京濱間の鐵
道を拂ひ下ぐるの沙汰あらんことを希望するなり斯くて此鐵道がいよいよ民有物に歸する
の日には管理者の見込を以て種々の經濟管理法を案じ先づ第一に發車の度數を増すべし凡
そ鐵道なるものは之を敷設するに大費用を要すること勿論なれども軌條通じて列車を其上
に運動するの段に至りては唯多少の石炭を消費するのみにして一日に十回運轉するも或は
更に二十回運轉するも軌條及び列車に損益する所は誠に稀少の事なる可きが故に發車の度
數は成る可く之を増加して乘客徃復の便を謀るこそ鐵道の本旨に適することなれ又今日の
所にては荷物の運賃不廉なる上に其取扱法の鄭重にして乙甲なるが爲め京濱間の運送荷物
は鐵道に由らずして徃々船便に依頼する向きも多き由なれども若しも此鐵道を私立會社の
手に歸したらば夫れ夫れ荷物取扱の便法を立て或は俗に云ふ數でコナスの主義にて大に運
賃を減ずる等の工風もあるべし尚瑣細の部分に渉れば乘車切符の通用を其一日内に限らず
尋常切符徃復切符を郵便電信切手樣の物と爲して或は之を進物とし或は之を金錢同樣の取
扱にする抔の便法もあらん兎に角之を私立會社の手に歸する以上は例の成規に束縛せられ
ず種々樣々の改良法を颯々と採用して乘客荷主の便に供することを得べきなり元來文明鐵
道の世界には地理上の離隔はなき筈なり發車の度數さへ増加すれば汽車に乘り後れたりと
て幾時間を空うして次の發車を待ちわびるが如きことなく東京と横濱とを密着して東京十
五區中に更に横濱區と云へる一區を加入するが如き觀を呈することを得べし或は世に東京
灣築港などの説ありて實測上工事も極めて輕便にして商賣上の都合も宜しかる可しとの事
なれば我輩は東京を以て東洋貿易の中心と爲すの宿望に於て素より之を賛成すれども若し
又實地測量の上築港の工事は横濱の方が輕便なりとの説もあれば一線の鐵道、横濱港を東
京灣に引き附くることを得べければ或は東京灣の築港を見合はせて横濱に立派なる棧橋で
も架設するの工風こそ捷径ならん事此に至りて京濱間の鐵道も始めて其効用を現はすこと
を得べけれども營業管理法の改良工風は政府の筋の短慮とも申す可きものにして時と共に
其營業の仕組を伸張すること或は六ケ敷かる可きが故に政府若し此に見る所ありて既成の
鐵道を一般に民間に賣り渡すの決心もあらば第一着に先づ京濱間の鐵道を拂ひ下ぐるの沙
汰あらんこと我輩の當局者に切望する所なり