「閔泳翊氏復た朝鮮に歸り來らんとす」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「閔泳翊氏復た朝鮮に歸り來らんとす」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

閔泳翊氏復た朝鮮に歸り來らんとす

最近の京城通信に由るに去る四月二十六日朝鮮國王は新に〓務局を置き閔泳翊氏を以て其

局長に任じたるに付き氏は近々支那より本國に歸來するならんとのことにて我輩の臆測を

以てすれば此通信は今後朝鮮政府に起るべき事變を豫知するに足るものなり抑も泳翊氏は

王妃の最親にして其勢力朝鮮に並びなく殊に明治十七年金玉均の變亂に當りて在朝の有力

者は或は殺され或は遁れて殘り少く氏の外には唯金允植李載元魚允中金有淵の數止めるの

みなれども素より閔氏と肩を並ぶるものにあらざれば滿朝の勢力悉く氏の一身に集まりた

るも氏は年齢尚ほ小壯にして其才智も亦國王及び王妃の信任を得るに足らず此際に乘じて

閔應植閔泳煥韓圭咼鄭洛鎔の數氏新に頭角を顯はし漸く泳翊氏の威光を殺めこれと〓〓す

るの勢を成したれば氏は之を不滿足に思ひけん支那に赴きて處々を遊歴すること凡そ一年

半を過ぎ再び京城に歸り來りしは明治十九年の八月なりしが當時朝鮮政府の有樣は兩閔韓

鄭の數氏互に地位を爭ふて政治毫も改良せず加ふるに金嘉鎭金鶴羽鄭秉夏趙存斗の數氏〓

族より出でゝ別入侍となり其勢力亦甚だ〓〓ならず爲めに政治益々多門に分るゝを見て泳

翊氏は益々遺憾に堪へず終に支那代理公使袁世凱氏の力を借ることゝはなれり同年九月中

旬袁氏忽ち虚傳して曰く支那の兵士五萬六千既に金州を發して仁川に向へり〓れ王側に金

嘉鎭金鶴羽などの奸臣ありて窃に露國と密約せしを譴責する爲めならんと朝鮮政府も始め

は之を信じて兩金以下四人を獄に下だすなど大に狼狽したれども一兩日にして其虚傳たる

こと漸く顯はれたれば泳翊氏は國王に告げて自から天津に赴き北洋大臣李鴻章に謁して朝

鮮は露國と密約せしことなきを辨疏せんとて〓に支那軍艦に搭じて仁川を發せしが中途よ

り天津に赴かずして芝罘に到り更に上海に出たるに付ては朝鮮政府にても袁氏の虚傳果し

て泳翊氏の所爲に因たるを知りて兩金以下四人の罪を問はず且氏は天津に赴く可きの王命

を帯びながら私に方向を轉じて上海に行くなどは以ての外の事なりとて非難する者甚だ多

し之が爲めに袁世凱も自から安んずる能はずして毎度歸國の事を公言するなどの事情にし

て袁閔兩氏の身の上は朝鮮に於て何となく不味なる有樣なりしが今日に至るまでは袁は歸

國せずして閔は復た歸來せんとす是れに就ては何か深き計畫あることならんと聊か我輩の

臆測〓を促すものなり

支那政府は朝鮮に干渉すること多年一日の如く苟も之を〓〓〓するに必要の方便とあれば

直に實行して爲めに巨萬の財を費すも之を惜まず恩を施し威を示して漸く之を〓〓し今日

の事勢、朝鮮は全く支那手中のもの〓〓〓其〓〓〓ながら〓の如くなる可ければ支那政府

の其斷を以て國王を〓立し官吏を黜陟し内治外交共に之を〓〓せんと〓するも朝鮮官民は

之に抵抗することなくして〓〓服從すべきや明なりと雖ども其擧動のこゝに〓〓〓〓は〓

〓各國の〓論を憚りて自から手を出さゞるものなりと推測せざるを得ず明治十五年大院君

の變亂ありし前後より支那政府は朝鮮を以て其の所屬の一〓なりと主張したれども當時日

本國は首として朝鮮〓〓〓〓の〓際を結び尋いで米國も亦これを獨立と見〓〓〓〓〓〓〓

〓〓〓の〓〓を〓〓として自家の目的〓〓〓〓〓〓したるを〓〓〓〓〓の〓〓に〓〓てま

す〓〓〓〓〓〓〓先づ≪〓〓〓の人〓を収めて然る後徐々に彼れをして自から所屬を請は

しめんとするの長策を工風したるに偶々金玉均の變亂ありて大に彼の民心を得たるは之を

支那政府の僥倖と云ふ可く爾來今日に至るまで李鴻章氏は朝鮮政府の有力者を得て其目的

を達せんと欲せしは徃々事跡にも現はれたるものにして閔氏の如きは李氏の尤も重く依頼

する所なり

閔泳翊氏は元と閔氏一族の開化率先者と唱へられたるなどにして其主義も自から支那に阿

從せざるものなれば明治十七年日本黨の亂を作すに當りても其黨中の洪英植は閔泳翊を同

盟に加へんと言ひ出したる由なれども言行はれずして却て變亂のときには先づ之を刃傷せ

しなどの始末にて其後は泳翊氏も漸く支那に依頼するの念を生じ支那政府にても氏の勢力

滿朝に並び少きを知りて成る丈け其歡心を求めたるに由りますます氏の依頼心を固くし常

に人に語て曰く余は金玉均の變亂以後も敢て開化獨立の主義を棄てたるにあらざれども我

國の小にして弱き間は支那に依頼するの外なきを知れりと斯く閔泳翊が支那に依頼する其

名は固より愛國忠君なりと雖ども内實は必ずしも然らず國を愛し君に忠なる其傍に朝鮮政

府の勢力を一手に握りて自家の功名心を逞ふせんとするには支那政府に依頼するの外なき

を知るが故なり故に金玉均の變亂以後は事々みな李鴻章氏に相談して其教示を仰ぎ昨年歸

國の時も永く天津に在りて李氏の教を受け歸國後の擧動一として其教の主義に從はざるは

なし左ればこそ袁世凱も之を助けて一活劇を演じたることなりしが爾後氏は上海を去て今

は復た天津に在る由なれば今回の歸國も必ず李氏の意に出たることにして歸國後は又舊の

如く袁氏の助力もある可ければ氏の歸國は即ち朝鮮政府多事の前兆にして氏が功名の成敗

は知る可らざれども首尾能く參れば朝鮮政壇上の一大家と爲り支那政府も之が爲めに體裁

能く其目的を達し八道の士民を撫でゝ十二分に恩威を施し其末段に至りては或は彼の官民

の情願に由り内附を請ふの成跡なきを期す可らず我輩は曾て朝鮮の事情に就き知る所を記

し以て京城の通信を註釋して讀者の參考に供するのみ