「再讀を請ふ」
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時事新報に掲載された「再讀を請ふ」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
再讀を請ふ
我輩は去る二十七日の本紙上に於て流言亦以て道徳城を堅くするに足る可しと題する一篇
を掲げ近來世上にて某貴顯が婦女子に對して何か怪しからぬ事を犯したり云々と噂すれど
も我輩は當初より直に之を一笑に附したる程の次第にして其此事ありたりと云へる塲所柄
より察するも被害者の今に不分明にして然かも無言なる處より察するも萬々此事ある可ら
ざるは我輩が一個の眞男子として心底より斷信する所にして流言無根の四大文字を以て一
筆に之を抹殺せざる可らず但し我上流社會に立つ者の中には昔年の習慣骨に徹して磊落不
覊の向きもある由なれば今回の流言は斷して無根にして本人の迷惑誠に以て氣の毒の至り
なれども或は斯かる無根の流言ありしが爲めに人々各々戒心して日本社會の流言城を堅固
にすることとも爲る可し云々と論述したり苟くも公平の眼を以て之を一讀するものは表裏
正側何れの部分より窺ふも彼の一篇は前述の主意に外ならざることを發見す可き筈なるに
一昨二十八日の東京日々新聞には讒謗の卑劣と題して我輩の論説を攻撃し其言語は穩和に
して其趣意は徳義を尚ふに外ならざるが如くに見ゆれども其裏面を窺へば之を以て貴顯の
身上に卑劣なる讒謗を加へて其令徳名望を毀傷せんが爲にする者の如くに考察せらるゝな
り云々と記載したり如何にも心外千萬の事共ならずや我輩は最初此流言を聞くや直に之を
一笑に附して殆んど辨護するにも足らざることなりと思考したるのみならず士君子間にあ
られもなき斯かる醜惡なる流言を記するは筆硯の手前も耻かしく紙上の體面に於ても之を
言ふことを遠慮す可き事柄なりと信じて窃に此流言の記事を避けたる程の次第なれども心
なき世上の人が一時の座興とは申しながら裏店社會の井戸端評議一般に何か事實らしく
喋々する由を聞き斯る流言にして萬一にも本人の身を煩はすやうの事ありたらんには或は
他日の惡先例とも爲りて事の極端を申せば政治上の奸計に斯かる先例を虐用するが如きこ
となしとも云ふ可らず斯くては後來我政治社會の腐敗を如何せんと獨り心に思案して不敏
なりと雖ども敢て心力を傾けて今回の流言の萬々無根なる次第を天下に表白せんと期した
るなり即ち言語の穩和にして其趣意の道徳を尚ぶに外ならざる所以にして日報記者の肉眼
尚能く之を辨知しながら下手な人相見が人の内心を鑑(金が皿の代りに下に)定するが如
く記者が色附きの天眼鏡を取り出して新報の文の裏面に貴顯を毀傷するの人相ありと臆測
したるは我輩の迷惑して已まざる所なり
我輩今此の流言に就て窃に世人の心状を察するに之を信ずるものは上流社會の交際法を知
らず夜會宴席の體裁を知らず紳士自重の念慮を知らず要するに無智識の者のみにして少し
く此邊の心得あるものは直に之を一笑に附して敢て之れに掛念するものあることなし即ち
此流言を信ずると信ぜざるとに因て其人品を判斷することを得る程の次第にして我輩まで
が大人氣なく彼の無智識者と同樣に之を疑惑し居るかと思はれては自から心に愧づるの趣
きなきを得ず畢竟日報記者輩は此問題の時事新報紙上に現はれたるを見て扨てはと例の色
附天眼鏡を取出して何處かに物騒なる人相はなきやと先づ自ら〓を設けて臆測を逞ふした
るが故に不幸にも其鑑(同前)定を〓まりて之を讒謗の文と見做したるものならんのみ今
日の事敢て多言を待たず日報記者は先づ其色附天眼鏡を取り去て肉眼を以て今一應時事新
報を熟讀せんこと我輩の希望する所なり將た又今度の流言の事實の如きは下流社會にても
其例極めて稀なる事柄にして日本社會の道徳を如何に低く評するも士君子中に此事實ある
べしとは思ひも寄らざる事にして我輩の素論は日報記者が再應熟讀して自ら發明するに任
せんのみ