「生絲市塲將來の望み(前號の續き)」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「生絲市塲將來の望み(前號の續き)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

〓近四五十年來東洋貿易の開けたるが爲め西洋市塲生絲の供給は凡そ其數を二倍にしたるにも拘はらず價格は依然として下落することなく且其品物の不捌けをも感ぜざるは正に今日の實况なれども抑も此實况は今後年年永續して日本養蠶業の隆盛を促すに値打ちあるものなりや如何と云ふに我輩に於ては斷じて之れ有りと返答すべし或る人の説によれば既往の八十餘年間こそ歐洲にては生絲の需要ただ進むの一方のみなりしなれども今日は最早や北滿盈の點を通り過ぎて此れよりは時に退くことあるも更に其上に昇らんとの見込覺束なし爾かのみならず歐洲の列國今日に在りては只管兵の事に忙はしく假令へ外面に血を流すの修羅塲を演せざるも、實は則ち戰爭の眞最中に異ならず國中に最も有用なる壯丁を擧げて常備軍の役に供し啻に其者等をして殖産の手を空ふせしむるのみならず又隨つて之に衣食を給する其有樣は故さらに遊民を作り他人の勞力を奪て之に生活せしむるに異ならず尚この上にも武器の發明は日日に新にして又日に新を競ひ其所費の大なること殆んと意想外にして國財消散の一點より見れば歐洲各國は日常平和の其中に居ながら日に月に大戰爭を戰ふものと云ふ可し今年今日までは先づ以て持續したることなれども永遠の經濟に於て各國の人民は果して能く此無限の費用に堪ゆ可きや數に於て甚だ疑はしきものなり然りと雖ども國を建てて獨立を維持せんとすれば兵備は廢す可らず、兵備廢す可らずして國財は缺乏を告ぐ、之に處する道は唯節儉の一法あるのみ扨節儉と定まりて贅澤費を省くの日に至れば絹布の如き奢侈外觀に屬するものは自然に需要を■(にすい+「咸」)じて其業を營む者は逐年利益を見ざるに至るべし又今日まで内にたたまりたる其戰毒一時に破裂したらば商賣も工業も微塵に碎けて其恐るべき此れより甚だしきは無かるべきなり斯かる相手を得意にして日本の蠶絲業を奬勵し倍倍商賣を弘めんとすれば其勉強するほど危險の内地に深入りして失敗を招くの道理判然なれば生絲市塲將來の望みは决して過去の事例を以て推すべからず云云と、言ふ者あり言少しく迂〓なるが如くなるも自から亦一理ある申條にて我輩敢て之を非難するに非ずと雖ども去迚日本國に養蠶事業を奬勵するの必要はこれが爲めに聊かも■(にすい+「咸」)ず可きにあらず假に今一歩を讓り或人の想像する如く歐洲の將來果して危險なりとせんか我輩毫も之を恐れず萬萬一にも斯かる想像論の實况に逢ふこともあらば歐洲の市塲を放擲して北米合衆國に向はんのみ其市塲の洪大なる今日に於ても日本産の生絲を容れて溢るることなし况んや今後ますます其人口の増加して其需要のますます盛んなる可きに於てをや我國に何ほどの産額を増すも我輩は其品物の捌方には心配せざるものなり

〓北米合衆國の土地廣く富源多く其生産の事業日に月に隆盛に〓きて已むこと無きの次第は過日の紙上に登〓したる移住論にも委しく見ゆる如くにして今改めて説くほどの必要なけれども唯生絲將來の景况に就て一言せんに昨明治十九年中、日本より米國に輸出したる生絲の〓〓は一千零二十三萬餘圓にして其歐洲に向ひたるもの〓一千萬圓〓餘なれば今日の處に於て米國の一〓〓は歐洲諸國の市塲と五分五分に日本の生絲を消費す〓〓〓〓〓〓の〓は日本〓が一度歐洲人の手を經ず〓〓と爲り再び米國に入るものも少額に非ざる由なれば量算を計算したらば間接に直接に日本の生絲は重に米國人の消費するものなりと稱しても可ならん、西洋の實情を知らざる人は日本の生絲が直ちに歐洲に向ふを見て是れは歐洲人が自家の使用に供するものならんと言ふ無きを期せずと雖ども實は决して然るに非ず歐洲人は東洋より日本支那の生絲を買出し之れに伊佛その他の諸國にて産出したる生絲を併はせ未製品の儘これを米國の機屋に卸す其年額も亦莫大なりと云ふ昨年の調べに依るに其歐洲より入りたる生絲の代價一千八百二十七萬餘弗、同じく織物の代價二千七百九十五萬餘弗にして此中には日本の生絲にして一度び歐羅巴を廻はりたるものも少なからざるよし此の如く今日に於ては陰に陽に合衆國が日本生絲の好得意塲なるに拘はらず其十年以前(即ち我明治九年頃)同國内消費の總高日本の俵數にして僅僅一萬俵内外なりしものが今日に至りて凡そ三萬五六千俵の多きに昇り即ち十年の其間に三四倍の需要を増したるは唯盛んなりと云ふの外なし而して其人口は如何にと云ふに是れも著しき割合の進みにして千八百七十年の人口は三千八百餘萬なりしに越て十年即ち去る八十年には五千餘萬人に達し今八十七年の人口は更に増して七千萬以上ならんと云へり尚ほ米國は毎十年に人口の調査を執行するの定めなれば來る九十年の人口は去る八十年の數に比して實に非常の増殖を見るに至る可し且つ米國の土地の廣大無邊にして、限り無き人口の増殖を許すことは我輩も既に記したる所にして先年米人某氏の計算に據れば合衆國三十八州の人民をテキサスの一州内に逐ひ込むとすれば人口稠密の割合は歐羅巴の白耳義に彷彿たるものにして左まで難澁にもあらず之が爲めに他の三十七州は荒漠たる原野即ち合衆國の餘地にして無限の人を容る可しと云へり夫れは兎も角も米國は斯かる殷富日進の國柄なれば今後歳歳生絲需要の増加すべきも當然の理にして日本國人が假令へ全力を擧げて生絲の産出に勉強するも米國に於て其需要の範圍こそ遙かに早き速力にて進むべければ其望み尚ほ尚ほ宏大なりと云はざる可らず特に米國は平和殖産專務の地にして歐洲の如く戰爭破裂の恐れあるに非ず兵備費用の負擔亦甚だ輕くして寧ろ兵無きの樂土只煕煕として太平の文明に浴するより外に餘念を有せざる事なれば日本國の爲めに謀りて將來生絲賣捌きの得意塲は此米國を措て他に求む可らず前途の望み洋洋として我生絲の價格に下落の憂ひなきは勿論、供給の不足にて或は折角なる好市塲の需を滿足せしむる能はざるを憾むことあらんのみ、擧國養蠶の事業、心配なく斷行して其利益の空しからざるを確信す可きなり         (完)