「商人旅行の氣習・1857字」
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本文
商人旅行の氣習・1857字
能く勞して能く〓するは文明國の商賣人なり商機氣轉
の忙はしき中間に建て日夜心身を役するの報酬には又
清遊快樂もなかるべからず抑も人間の力には自から制
限のあるものにして若し之を使用するの一方に傾き
大切なる補養の道を忘るゝに於ては人生の樂事を享く
ることも叶はざるべきが故に西洋各國の商人が平生勞
邊の心掛を忘れざるは我輩に於て感服の外なきなり日
本の商人は之に反して一年三百六十五日眠る目もねず
喰ふものも喰はず唯働くの一方のみにて狹隘の家屋を
城郭に構へ腐敗せる空氣に呼吸して恬然自から顧みざ
るは蓋し古來の習慣とも申すべきか明治維新の今日に
至ると雖ども尚を其身分の大切を悟らずして貴重なる
生命を 車〓馬埃埋むるもの比々皆是なるが如しこれ
獨り裏町に住む小商人社會に限るにあらず堂々たる都
下屈指の紳商にして之を學ぶは偖も如何なる存意なる
か甚だ解釋に苦しむ所なり仕來りとは申すものゝ日本
の商人は兔角に二十年以前の舊物に安んじ、今日文明
の世の中に立ちながら一身の快樂を逐ひまた位地を高
尚にするの點に於ては注意甚だ淡泊にて官途社會に立
つの人に較ぶれば雲泥の相違なきに非ず喩へば今年も
夏向きに相成り暑中の休暇あるに於ては在官の人々は
或は地方に漫遊し或は温泉に遊浴する等各自快樂を事
とせざるはなけれ共商人の社會には之を爲すもの割合
に稀なるが如し或は右の人々は行遊の事も快樂なきに
あらずと雖ども別段他の利益を見ざるが故に之を爲さ
ずとの存念にてもあるか是れは我輩の甚だ不服なる所
にして鄙見を以てすれば商人に旅行の利益あるは恰か
も衞人が山水を跋渉するの要用に等しく其足跡に任せ
て行脚斗撤するの本願はたゞ清遊を事とするのみに似
たれ共山川秀麗の氣に接して丹青の妙趣を養ふの効益
また尋常に非ず只席上に臨池して古人筆幅の死法を慕
寫する許りにては所詮名手の譽れを博することは得べ
からざるなり商賣人の旅行亦これに異ならずして廣く
内外各地の實際を踏みその商賣の如何をも觀察したら
ば之を土着の商人が一歩も郷里外に出でたることなきの
輩に比して技量に大相違あるは疑ふべからず故に西洋
の商家に於て其子弟を商賣の實地に入るゝに先だちて
一度は旅行を爲さしめ又自分にも其漫遊を怠らざるは
必ずしも贅澤一方の目的に出でたるに非ず寧ろ必要の
點より多忙なる時月をも倫みて尚を且つ之を爲めもの
概ね然るが如し中に豪華を張る商人に至りては世界漫
遊の其爲めに汽船を仕立てゝ五洲に周航するの類もあ
り極めて奢侈なるに似たれ共兼て耳目の見聞を豐かに
して商売の機先を忽にせざるは西洋商人の得意とする
所にして此辺より考ふれば旅行は単に商家社会の快楽
を助けて其勞邊の関係を全うせしむるの功に止まらず
して殆んど之を一科の教育としても不都合は無かるべ
きか左れば内地旅行の心掛けは勿論海外遊歴の擧も最
も重要にして旅裝必ずしも鄭重を要するにあらず有り
の儘に行李を埋めて先づ夏中の旅行ならば露領浦據斯
徳に航するか支那北京天津の邊に赴かんか或は今度新
線路を開きたる横濱とヴァンコーバルの汽船より續て
加念陀太平洋鐵道の經過する其地方は氣候甚だ清冷に
して暑時尚ほ暑を知らずと云へば夏期の旅行には最も
適當ならん更に工夫を新にせば北半球の夏は即ちまた南
半球の冬なるが故にオーストラリヤ。ニュージランド
の方に遠進して清涼の空氣に呼吸せんこと頗ぶる妙な
り又かの歐米の遊歴を爲さんとする人の爲めには幸ひ
本年は西班牙に博覽會ありて開會の時日少しく延びた
る樣子なれ共出品見物の遊を兼て商況の視察には屈強
の機會ならん其他明治二十二年には佛蘭西にも大博覽
會ある由にて外にも西洋各地これに類するの催ふしは
數限りもなからんなれば日本商人の行遊に報ゆるその
利益は決して乏しきにあらざるなり要するに歐米の市
場は更なり南洋の諸洲或は支那印度等皆な日本貿易に
大關係あるの土地ならざるなく各自これに遊んで新規
の貨物を發見し來り或はその市場の趣向を察して日本
物産の販路を開く方法云々と確なる計畫なしとする
も唯漫然たる行遊、〓人の跋渉に倣ふて其利益の大な
るは我輩の言を俟たずして明なり新聞紙など見れば近
來に至りて日本商人の海外行きを企つるものも往々に
現出するよし誠に祝すべきの次第なれ共只その人員至
少にして指もて數ふるに足らざるは尚ほ遺憾なき能は
ず此上は商家の一般を擧げて務めて旅行の氣風を盛ん
にせしめ其足跡を海外に及ぼすの急務は申すまでもな
き事にして日本商人の快樂を助け又其地位を高むるの
方法これに若くものなかるべきなり