「鐵道敷設成功後の力役者」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「鐵道敷設成功後の力役者」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

鐵道敷設成功後の力役者

人間社會には心を勞するものあり力を役するものあり

力を役するものは何れの國にても常に人口の多數を占め

て學問智識こそ乏しけれ殖産の道に當りては資本家

と並び建て輕重なしと雖ども流石に文明進歩の勢ひに

は敵し難く蒸氣電氣の向ふ所着々業を失ふは理性の然

らしむる所にして輕薄の眼を以て見れば此流の力役者

は有るも無きも共に差支えなきに似たれども有無何れを

か撰べと云へば寧ろ其社會に跡を絶たん事にか願はし

けれ何となれば力役人數は多くして其人の思慮は乏

しく一朝社會の變に際して衣食を失ふに至るときは飢

寒に迫られて遂に世の安寧を妨ぐるの恐れあればなり

所謂盛徳の君子ならば死生存亡の際に臨みても理勢の

數を知り能く其分に安んずることもあらんなれども人

間社會は君子の社會に非らず況んや下等の力役者流に

於てをや其窮して濫れるなからんを欲するは到底望む

可からざるの望と云ふ可きのみ

世上一般の不景氣の爲めに力役社會に業を失ふるの

事例は内外古今に珍しからざれども是れは商工の活動

に免かる可らざるの不幸にして一弛一張、回復の時節

なきにあらず假令へ不景氣衰微の極に陷りたるものに

ても國の元氣の根底より枯るゝに非ざれば一陽來復の

日は期して待つ可し或は事情劇しくして來復を待つに

暇なき歟、人爲の工風を運らして一時の急を救ふの方

略なきに非ず即ち地方の便宜に從て土木の工を起すが

如きも其一策として見る可きものなり例へば明治十七

年の末より信越地方に鐵道の工事を起したるは素と貧

民救助の爲めなるか或は偶然の出來事なるか其邊は之

を問はず兔に角に是れが爲めに其近傍の力役者は職業

手に余りて衣食不足を告けず當時世間は一般に不景氣

の底に沈み寒野蕭條枝枯れ葉落つるの最中、北隅獨り雪

中の春を占めて得々たりしは一時の工事果して救急の

効を〓して誤らざりしの實を見る可し然りと雖ども此

種の救急法は假令へ經世家の作爲に出るも又偶然の出

來事に由るも眞に一時の權道又僥倖にして到底永久す

可き性質のものにあらず是れ即ち我輩が特に世人の注

意を促さんと欲する所のものなり近來鐵道の敷設は我

輿論の是視する所と爲り日本鐵道會社奧羽の線路を始

めとして東海道の官設も既に半に至り山陽九州其他各

所の工事續々着手に至らんとするに際し差向き必要の

ものは土方人足の仕事にして力役社會の繁昌は云ふま

でもなく既に其一部分に錢を得るの道を開くときは其

錢は轉じて宿屋に入り飮食店に入り又轉じて米屋に渡

り肴屋八百屋へ渡る等無限の運轉に無限の賑ひを生じ

下流社會一般の景氣は洋々として春の海の如くなる可

し誠に目出度き次第なれども然りと雖ども此景氣繁昌

は唯一時の假相にして永く依頼す可きものに非ず啻に

依頼す可からざるのみならず今の繁昌の定跡は遂に以

て下流社會を苦しむるの媒介たる可きのみ土方人足等

が工事に役せられて錢を得るは一時の繁昌なれども其

工事成りて鐵道の便を開くに至り其運搬交通の働は力

役社會に如何なる影響を及ぼす可きや殷鑑遠からず人

力車發明の時に在り從前二人の駕籠人足にて一人の客

を擔ぎ十里の路を往きたるものが人力車發明以後は一

人の力能く一人の客を二十里外に送り屆けて駕籠の人

足復た顏色なし僅に人力車の使用にても尚ほ且つ斯く

の如し況んや有力無邊の汽車に於てをや汽車の往來一

度び其力を逞ふするに於ては從來かの地方に行はれ

たる運搬交通の舊套を一掃するのみならず共の波及す

る所の變動は實に容易ならざるものと知るべし例へば

東京横濱間の鐵道の爲めに驛路八里の間は殆ど人跡

を絶ち車馬の往來稀れにして沿道の宿屋茶店一も舊時

の面目を保つものなし又本月十一日より横濱國府津間

の線路も開通して神奈川以西十餘里の間一時に寂然た

りと云ふ

左れば鐵道は下流力役者の力を以て成り、其成りたる

上は力役者の仕事を奪ふて之に禍するものなれば其工

事に役せられて一時の衣食を得るの事情は劍を鍛ふて

敵に賣るものに異ならず生を成すの道即ち死を致すの

媒介たる可きのみ西洋諸國にても鐵道この他諸種の器

械を人間の實業に滴用して一時に力役社會の生計を奪

ひ之が爲めに種々樣々の苦情を生じて遂には破裂して

社會の安寧を害したるの事例は甚だ少なからず我國に

於ても今日鐵道事業の盛んなるを見て退て數年後の事

相を想像すれば聊か懸念す可きものなきにあらず本來

日本人民の性質は至極柔順なるが故に容易に破裂亂暴

の事もなかる可しと雖ども破裂せざれば默して窮する

の難澁あるのみ益々氣の毒なる次第なれば經世の士人

は今より豫防の策を講じ或は從來の田租を薄くし又は

新地開墾の利を厚くして無業の力役者を農に導き或は

海外移住の道を開て人口稠密の憂を免かるゝ等かの邊

の工風を運らすは特に今日に大切なる用心なる可し