「支那論」
このページについて
時事新報に掲載された「支那論」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
支那論
支那は世界の大國にて十八省四百餘州の面積に蒙古滿
州其外の局地を合すれば四百餘萬英方里なり地味豐饒
にして沃野限りなく物産貨物の多きことも比類尠きそ
の上に南東の兩面太陽に濱して沿岸の交通自在なるの
みならず黄河揚子江の如き大川國の内部を紆餘曲折し
てその船舶の便利は申すまでもなく或は其西邊に至り
ては紅河の流れ雲南甘肅の諸省より安南東京に通じて
水路平坦、運輸縱横、恰かも世界の大林園にして之に生
ずる千百の貨財皆用ひて文明國民の資を爲さゞるもの
なし斯く結構なる邦土にてありながら兵制軍備の嚴な
るものなきは恰かも番人なき林園に異ならず入て其菜
菓を摘むこと容易なるの有樣なれども若しも之に兵力
を添へて陸海の門戸を固めたらば其勢力當るべくもあ
らずして歐洲人は唯だ手を引き茫然たるの外なからん
然るを徒らに干戈を起して支那を攻撃するは取りも直
さず愚者に智慧を授くるの拙謀にて其度毎に支那人の
蒙を啓き根性を曲げ偖は西洋人も油斷がならずとの疑
念を抱かしめ疑極りて大に發明せしむるまでのことに
して文明國人の爲めには却て甚だ不利なれば何處まで
も中華大國と崇めまつり其眠の醒めざるやうに麻藥を
〓(さんずい+生)けて徐々に商賣貿易の利を握るころ歐洲の得策なれ
と、以上は今を距ること四十餘年前東洋の事情に明な
る外人某氏の意見なる由我輩の曾て之を耳にし記臆す
る所のものなるが近年に至りて其國の形成を察すれば
前記某氏の預言能く事實を言ひ當てゝ誤まらざりしを
發見したり
蓋し西洋人が支那に手出したるその始めは今を距る五
十年前道光阿片の騷ぎにてかの後英佛聯合の兵が天津
に乘入れたるより更にこの十年以前に至り伊犂事件に
て露國とも戰端を開きたるに此等の事變は歩一歩ごと
に支那人を驚かしたるものなれ共未だ十分に其貪眠を
妨げざりしを去る明治十七年の五月に至り安南東京に
變生じて佛蘭西と開戰の沙汰に及び接線彌々激しくし
てこの年の八月には意外にも福州を砲撃せられ引續き
淡水鷄籠の戰ひにて殆ど一箇年を費し十八年の四月
に至り佛清の和議漸く成りたるものゝ此一年の防戰に
て全く支那人の長眠を攪破し、爾來漸く西洋の文明を
〓て自衞するの要用を覺り軍艦を注文し兵學校を建て
西洋人を増聘し募兵の方法を改革する等其施政の面目
頓に一變したるは全く佛清戰爭より起りたる偶然の結
果なれ共前記歐洲人が漫然支那に手出して後この始末
に苦しむ可し云々との占言は殆んど中れりと申すべき
なり故に此戰爭の後に至りては支那政府は頻りに西洋
有形の文明を採取し電信線の如きもかの北京より天津
芝罘の海岸を經て上海廣東に至るものは更なり内部の
諸省をも聯絡して西北の邊疆に達するまで大半は工事
も落成し目下尚を起工中のもの日を逐て竣成する其影
響を如何と問ふに爲めに中央政府の權力を固めたること
亦非常なりしと云へり從來支那の版圖は廣きに失して
政令四方に往き屆かず總督巡撫の諸官員も北京の政府
に於て任免の名義こそあれ共實は純然たる獨立の生涯
藩主にして銘々勝手の威權を振ひ政府亦之を如何とも
する能はざりしに電信の開通以來は總督以下の私權悉
く奪はれて北京政府の命令は瞬時に來り、何事を爲す
にても大政府の指揮を受くるが故に十八省の統御斯く
迄に屆きたること開闢四千年未だ嘗て之を聞かずそ
の中央集權の基礎正に舊立したりと申すべきなり從前
賠償の設けなき時に於ても江蘇兩江なんと汽船往來の
便利なる其地方は甘肅四川の如き遠隔の諸省に比して
集權の政治行はれしも如何にせん内部省州の距離甚だ
しく其一回の往來にも六箇月を費すといふやうなる不
便ありて地方官は之を利用し殆んど陸〓を極めしなれ
共今日に至りては此等の弊も一齊に煌滅し或は彼の苛
老會の兇徒の如き即ち陸山泊の遺擧を學んで朝廷の命
令を奉せざるものも亦皆散離するや疑ひなし果して然
らば獨り集櫂の基礎立つのみならず内治の保安完全に
して天下亦太平なるべし電信の一工事にして既に然り
尚ほ其上に鐵道を敷設し十八省の氣脈悉く貫通したら
ば支那帝國の強大果して如何なるべきや虎に羽翼を附
けたるの譬へにして其恐怖すべきこれより甚だしきは
なかるべし (未完)