「支那論」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「支那論」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

支那論

支那は世界の大國にて十八省四百餘州の面積に蒙古滿

州其外の局地を合すれば四百餘萬英方里なり地味豐饒

にして沃野限りなく物産貨物の多きことも比類尠きそ

の上に南東の兩面太陽に濱して沿岸の交通自在なるの

みならず黄河揚子江の如き大川國の内部を紆餘曲折し

てその船舶の便利は申すまでもなく或は其西邊に至り

ては紅河の流れ雲南甘肅の諸省より安南東京に通じて

水路平坦、運輸縱横、恰かも世界の大林園にして之に生

ずる千百の貨財皆用ひて文明國民の資を爲さゞるもの

なし斯く結構なる邦土にてありながら兵制軍備の嚴な

るものなきは恰かも番人なき林園に異ならず入て其菜

菓を摘むこと容易なるの有樣なれども若しも之に兵力

を添へて陸海の門戸を固めたらば其勢力當るべくもあ

らずして歐洲人は唯だ手を引き茫然たるの外なからん

然るを徒らに干戈を起して支那を攻撃するは取りも直

さず愚者に智慧を授くるの拙謀にて其度毎に支那人の

蒙を啓き根性を曲げ偖は西洋人も油斷がならずとの疑

念を抱かしめ疑極りて大に發明せしむるまでのことに

して文明國人の爲めには却て甚だ不利なれば何處まで

も中華大國と崇めまつり其眠の醒めざるやうに麻藥を

〓(さんずい+生)けて徐々に商賣貿易の利を握るころ歐洲の得策なれ

と、以上は今を距ること四十餘年前東洋の事情に明な

る外人某氏の意見なる由我輩の曾て之を耳にし記臆す

る所のものなるが近年に至りて其國の形成を察すれば

前記某氏の預言能く事實を言ひ當てゝ誤まらざりしを

發見したり

蓋し西洋人が支那に手出したるその始めは今を距る五

十年前道光阿片の騷ぎにてかの後英佛聯合の兵が天津

に乘入れたるより更にこの十年以前に至り伊犂事件に

て露國とも戰端を開きたるに此等の事變は歩一歩ごと

に支那人を驚かしたるものなれ共未だ十分に其貪眠を

妨げざりしを去る明治十七年の五月に至り安南東京に

變生じて佛蘭西と開戰の沙汰に及び接線彌々激しくし

てこの年の八月には意外にも福州を砲撃せられ引續き

淡水鷄籠の戰ひにて殆ど一箇年を費し十八年の四月

に至り佛清の和議漸く成りたるものゝ此一年の防戰に

て全く支那人の長眠を攪破し、爾來漸く西洋の文明を

〓て自衞するの要用を覺り軍艦を注文し兵學校を建て

西洋人を増聘し募兵の方法を改革する等其施政の面目

頓に一變したるは全く佛清戰爭より起りたる偶然の結

果なれ共前記歐洲人が漫然支那に手出して後この始末

に苦しむ可し云々との占言は殆んど中れりと申すべき

なり故に此戰爭の後に至りては支那政府は頻りに西洋

有形の文明を採取し電信線の如きもかの北京より天津

芝罘の海岸を經て上海廣東に至るものは更なり内部の

諸省をも聯絡して西北の邊疆に達するまで大半は工事

も落成し目下尚を起工中のもの日を逐て竣成する其影

響を如何と問ふに爲めに中央政府の權力を固めたること

亦非常なりしと云へり從來支那の版圖は廣きに失して

政令四方に往き屆かず總督巡撫の諸官員も北京の政府

に於て任免の名義こそあれ共實は純然たる獨立の生涯

藩主にして銘々勝手の威權を振ひ政府亦之を如何とも

する能はざりしに電信の開通以來は總督以下の私權悉

く奪はれて北京政府の命令は瞬時に來り、何事を爲す

にても大政府の指揮を受くるが故に十八省の統御斯く

迄に屆きたること開闢四千年未だ嘗て之を聞かずそ

の中央集權の基礎正に舊立したりと申すべきなり從前

賠償の設けなき時に於ても江蘇兩江なんと汽船往來の

便利なる其地方は甘肅四川の如き遠隔の諸省に比して

集權の政治行はれしも如何にせん内部省州の距離甚だ

しく其一回の往來にも六箇月を費すといふやうなる不

便ありて地方官は之を利用し殆んど陸〓を極めしなれ

共今日に至りては此等の弊も一齊に煌滅し或は彼の苛

老會の兇徒の如き即ち陸山泊の遺擧を學んで朝廷の命

令を奉せざるものも亦皆散離するや疑ひなし果して然

らば獨り集櫂の基礎立つのみならず内治の保安完全に

して天下亦太平なるべし電信の一工事にして既に然り

尚ほ其上に鐵道を敷設し十八省の氣脈悉く貫通したら

ば支那帝國の強大果して如何なるべきや虎に羽翼を附

けたるの譬へにして其恐怖すべきこれより甚だしきは

なかるべし (未完)