「人情は變遷を好むものなり」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「人情は變遷を好むものなり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

人情は變遷を好むものなり

凡そ世間の事物が人の心身に適應して愉快の感を起さしむるは其物の性質如何に在るのみ清酒の獨酒に於ける、魚肉の野菜に於ける、絹布の木綿に於ける、其物の性質に差等あれば人の口に感じ膚に觸るゝ所にも亦快不快の差等を覺え其性質上品なれば人の快樂も亦隨て多く、上々ますます際限あることなし、此一義は道理に於ても又實際に於ても必ず然る可きに似たれども眼を轉じて人情の點より見るときは亦甚だ然らずして時としては反對の事相を呈することあり山居する者は海を悦び、海邊の人は山を好む、衣服飮食住居の物、暫く之に慣れば新鮮を好まざるはなし彼の衣裳の仕立方、織物の色合模樣の如き最も大切なる箇條にして其織物の地質如何に論なく唯時の流行に走るは人情、新を悦ぶの事實を見る可し又野菜の味は魚肉に及ばずして其売買の値も異なりと雖ども一週間も漁村に逗留して鮮魚のみを食ふ時は直に之に飽きて菜食を思はざるものなし即ち食物は其質の良否に拘はらず同樣の品を用ひて久しく之を持續すれば厭惡の情を生じ遂に條品を擯けて粗品を悦ぶに至るの實證なり故に事物の好惡は其事物の性質に在らずして我心情の變遷に存するものと斷定するも不可なきが如し以上の所論果して違はざるに於ては人民が政治に對するの心情も亦斯くの如くならざるを得ず何々の政治を善と稱し何々の治風を惡と評するも其實を叩て吟味したらば必ずしもその施政の實質に善惡はなくして唯政治社會の新陳更迭を好むの人情よりして樣々の議論を生ずるの場合も多かる可し故に政治の得失論を論ずるは大人の事にあらず大に事に害なき限りは政治社會をして隨時圓滑に交代せしめ以て天

下の人心を新にするは至極肝要の事なる可し此事に就ては今更特に論述するを要せず明治十二年發兌福澤先生書〓の民情一新あり今かの一節を抄録して本日の社説に代ふ

(前略)以上枚擧スル如ク政府ノ變革ヲ好ムハ世界普強ノ人情ニシテ殊ニ千八百年代文明ノ進歩ニ際シテハ其變革ヲ促スノ勢、日ニ益々急ナルガ如シ苟モ政府ヲ立テヽ一定不變ノ氣風ニ從ヒ之ヲ永年ニ持續シタルノ例ハ千七百年ヨリ以上未ダ近時ノ文明ニ逢ハザル時代ニ於テ英明ノ君主ガ獨リ政權ヲ握リ恩威ヲ以テ萬民ヲ統御撫育シタル者ノ外ニ求ム可ラズ今日ニ在テハ假令ヒ明君英主ニテモ文明ノ風波ニ堪ユルハ甚ダ易カラズ露國ノ今帝(今の先帝なりと知るべし)ノ如シ天資英邁シテ其教育モ亦尋常ナラズ歐洲露國ノ帝王ニ比シ決シテ一歩ヲモ讓ル可キ人物ニ非ザレトモ其政治ニ困却スルコト前章所記ノ如シ況ヤ君主自カラ政府ノ實權ヲ執ラズシテ他ニ任ズルコト英國ノ如クナルモノニ於テヲヤ國安ヲ維持スルノ術ハ唯時ニ關テ政權ヲ授受スルノ一法アルノミ此一義ハ和漢古今未ダ人ノ言ハザル所ナレトモ唯コレヲ明言セザルノミニシテ事實ニ於テハ古來ノ歴史上ニモ行ハレテ

人モ亦唯ニ論ジタルモノヽ如シ榮華久シク居ル可ラズト云ヒ功成リ名遂ゲテ身退クハ天ノ道ナリト云フガ如キハ功臣ノ私ヲ戒シメタル言ニシテ蓋シ此意ナラン固ヨリ古代ノ和漢ト今代ノ西洋諸國ヲ比較スレバ其社會ノ仕組モ特ニハ今ノ西洋ニテハ一種ノ政黨ニ就テ論ジ古ノ和漢ニテハ一個人ニ就テ言フコトナレトモ其言ノ意味ヲ擴メテ之ヲ考レバ畢竟政權ノ歸スル所、一意ニ定リテ永年不變ノ有樣ニ居ルコトハ必ズ樣々ノ故障ヲ生ジテ禍ヲ致ストノ意ヲ表スルモノヨリ外ナラズ古今ノ情態自カラ暗合スル所アルヲ知ル可シ又國家創業多事ノ日ニ明君賢相、力ヲ併セテ國事ヲ整理シ其宰相ガ久シク位ニ居テ補佐ノ功ヲ成シタ

ルノ例ハ少ナカラズト雖モ太平無事ノ天下ニ名臣良弼ガ十數年ノ間ヨク貴要ノ地位ヲ占メタル者ハ歴史ニ於テ殆ド稀ナリ但シ武功ノ元老唐ノ郭子儀節度ノ如キハ却テ樞密ニ關セズシテ例外ナレトモ純粹ノ文官ニシテ天下ノ政權ヲ一手二握リ永ク其位ヲ保タントスルハ殆ド難キコトニシテ若シモ強ヒテ之ヲ保タントスレバ必ズ奸惡ノ名ヲ蒙ラザルハナシ唐ノ李林甫、宋ノ秦檜ノ如キ是ナリ(中略)然バ即チ隨時ニ政權ヲ授受スルノ要用ナルハ千百年ノ古ヨリ事實ニ於テ違フナキヲ知ル可シ況ヤ今ノ活溌世界ニ於テヲヤ千八百年代ノ後ニ至テハ益々其急ナルヲ見ル可キナリ尚前ノ事實ヲ明ニスルタメ英國ニ行ハレタル政權授受ノ期限ヲ示シテ其實ヲ證セン亞米利加ノ合衆國ハ毎四年ニ大統領ヲ改撰シ隨テ内閣ノ諸大臣モ一新スルノ法ナレトモ英國ニ於テハ其年限ヲ定メズ内閣ノ執權(プライム ミニストル)ヲ始メトシテ諸大臣ニ至ルマデモ終身在職シテ妨ナキ法ナレトモ事實ニ於テハ決シテ然ラズ左ノ表ハ千七百八十四年ヨリ千八百七十九年ニ至ルマデ九十六年ノ間同國執權ノ新陳交代シタル年月日ト其在職ノ時限トヲ示スモノナリ

 就職ノ日         在職ノ時限    執權ノ人名

千七百八十三年十二月廿三日 十七年八十四日  ウヰリヤム ピツト

千八百一年三月十七日    三年五十六日   アヂントン

千八百四年五月十五日    一年二百四十一日 ウヰリヤム ピツト

千八百六年二月十一日    一年六十四日   グランヴヰル

千八百七年三月卅一日    三年百二日    ポルトランド

千八百九年十二月二日    一年三百五十日  ペルセワル

千八百十二年六月九日    十四年三百七日  リイウルプール

千八百二十七年四月廿四日  百二十一日    カンニング

千八百二十七年九月五日   百六十八日    ゴデリッチ

千八百二十八年一月廿五日  二年三百一日   ウエルリントン

千八百三十年十一月廿二日  三年二百三十一日 グレイ 

千八百三十四年七月十八日  百二十八日    メルボルン

千八百三十四年十二月廿六日 百三十一日    ロベルト、ピール

千八百三十五年四月十八日  六年百三十八日  メルボルン

千八百四十一年九月六日   四年二百九十五日 ロベルト、ピール

千八百四十六年七月六日   五年百七十三日  リユツセル

千八百五十二年二月廿七日  二百九十三日   デルビー

千八百五十二年十二月廿八日 二年三十七日   アベルヂーン

千八百五十五年二月十日   三年二十四日   パルマストーン

千八百五十八年二月廿五日  一年百四日    デルビー

千八百五十九年六月十八日  六年百二十二日  パルマストーン

千八百六十五年十一月六日  二百四十二日   リユツセル

千八百六十六年七月六日   一年二百四十一日 デルビー

千八百六十八年二月廿七日  二百三十五日   ヂスレリー

千八百六十八年十二月九日  五年七日     グラツトストーン

千八百七十四年二月廿一日  今尚在職     ヂスレリー

右九十六年ノ間執權ノ交代二十六代、在職ノ時限短キモノハ百二十一日長キモノハ十七年八十四日、五年以上ノ者ハ今ノ執權「ヂスレリー」ヲ合シテ七名、十年以上ノ者ハ二名ノミ又コノ九十六年ヲ廿六代ニ平均スレバ一代在職ノ時限三年六分九厘餘ニ當リ之ヲ亞國四年在職ノ者ニ比スレバ其交代却テ速カナルヲ見ルベシ抑モ亞米利加建國ノ時ニ政體ヲ作テ大統領ノ交代ヲ四年ト定メタルハ必ズ偶然ニ非ズ當時ノ諸名士ガ世界古今ノ形勢沿革ヲ察シテ一國政府ノ樞要ニ關スル者ハ其位ヲ久シクス可ラズトノ事實ヲ發明シ之ヲ確定シテ以テ國法ト爲シタルモノナラン唯英國ニ於テハ交代ノ國法約束ナキノミナレトモ其政權ヲ授受スルノ實ハ亞國ニ異ナルナシ是亦偶然ニアラズ畢竟英國歴代ノ實驗ヲ經テ遂ニ一種ノ治風ヲナシ以テ當時ノ國安ヲ維持シテ社會ノ繁榮ヲ助ケタルモノナレバ之ヲ先代ノ鴻業ト云ハザルヲ得ズ(下略)

又隨時ニ政權ヲ授受スルノ緊要ニシテ成規約束ノ有無ニ拘ハラズ必ズ事實ニ行ハルヽノ證ハ之ヲ西洋諸國ニ求メズシテ近ク我日本ノ先例ヲ見テ知ル可シ日本ニテ徳川ノ初年ハ幕府モ諸藩モ所謂明君賢相ノ相共ニ事ヲ爲ス者多クシテ政權ハ都テ君上ノ手ニ在ル時代ナレバ之ヲ例外トシテ閣キ其後太平日久シキノ間ニハ概シテ明君ハ甚ダ稀ナルモノトセザルヲ得ズ其明君ニ乏シキ時代ニ於テ諸藩中家老ニテモ用人ニテモ藩政ノ實權ヲ握ル者ガ十數年ノ間、在職シタルノ例ハ極メテ稀ナルガ如シ餘ハ多年此事ニ注意シテ諸舊藩ノ古老ニ質スニ大抵皆然ラザルハナシ執權ノ重臣ハ一年ニシテ辭職シ三年ニシテ黙ケラレ甚シキハ藩中ノ物論沸騰シテ之ヲ奸臣ト名ケ不忠者ト稱シ之ガ爲ニ遂ニ蟄居申付ケラルレバ其代リトシテ職ニ就ク者ハ即チ前年同樣ノ故障ヲ以テ禁錮セラレタル重臣ニシテ此度ノ再勤コソ青天白日ノ愉快ナリト得意ノ日月モ亦復タ久シカラズシテ再ビ風雨ニ際シ啻ニ位ヲ全フセザルノミナラズ身ヲモ全フスルコト能ハザル其事情ハ各藩符節ヲ合スルガ如シ但シ諸藩ノ事

ハ廣クシテ之ヲ調査スルコト甚タ易カラズ頃日幸ニシテ徳川政府ノ御老中御勝手方ノ在職年表ヲ得タレバ之ヲ左ニ示ス

 就職ノ年月    在職ノ時限  御老中御勝手方姓名

寶暦十二午年十二月 十六年七箇月  松平右近將監

安永八亥年七月   二年二箇月   松平右京太夫

天明元丑年九月   五年十箇月   水野出羽守

天明七未年七月   二年五箇月   松平越中守

                  水野出羽守

寛政元酉年十二月  二年八箇月   松平越中守

寛政四子年八月   十一年四箇月  松平伊豆守

享和三亥年十二月  二年四箇月   戸田采女正

文化三寅年四月   十年六箇月   牧野備前守

文化十三子年十月  一年四箇月   土井大炊頭

                  青山下野守

文政年元寅二月   十六年     青山下野守

                  水野出羽守

天保五午年二月   三年一箇月   大久保加賀守

                  松平周防守

天保八酉年三月   六年六箇月   水野越前守

天保十四卯年閏九月 十箇月     水野越前守

                  土井大炊頭 

                  堀田信濃守

天保十五辰年七月  十六年五箇月  阿部伊勢守

                  堀 大和守

万延元申年十二月  以下慶應三年ニ至ルマ  安藤對馬守

          デ七年ノ間ハ幕府ノ末  水野和泉守

          期國事多端ニシテ御老  松平豐前守

          中ノ出處モ殆ト常ナキ  板倉周防守

          ガ如キモノナレバ其在  松平紀伊守

          職ノ時限モ之ヲ略ス   松平周防守

寶暦十二年十二月ヨリ慶應三年ニ至ルマテ百五年ノ間老中御勝手方ノ在職二十代、コレヲ平均スレハ一代ノ時限五年二分五厘ナレトモ萬延元年安藤對馬守以下六名ハ之レヲ除キ寶暦十二年十二月ヨリ萬延元年十一月ニ至ルマテ九十八年間ノ有樣ヲ見ルニ在職十四代ノ内長キハ十六年七箇月短キハ二年二箇月、天保十四年ヨリ同十五年テ十個月ノモノアレドモ

同勤三名ノ内水野越前守ハ全權ニシテ天保八年ヨリ起リタルモノナレバ其實ハ七年四個月ナリ又此十四代ノ内十年以上ノモノハ五代ニシテ五年以上ノモノハ七代ナリ此總數ヲ九十八年ニ平均スレハ一代ノ在職正シク七年ニシテ分數ナシ右七年ノ數ハ之ヲ亞英兩國ノモノニ比スレバ緩慢ナルガ如クナレトモ別ニ又御勘定奉行ノ新陳交代ヲ見レバ甚タ速ナルモノアリ舊幕府古老先生ノ所説ヲ聞クニ徳川ノ政府モ太平ノ時代ニ爲リテハ將軍躬カラ事ヲ執ルニ非ズシテ專ラ權柄ノ歸スル所ハ御老中、若年寄ト御勘定奉行トニ在リ而シテ此三役ノ中ニ各御勝手方ナル者アリテ會計ノ事ヲ統轄ス最モ權力アリ故ニ御老中ノ御勝手方ハ政府最上ノ執權トシテ視ル可シ又御勘定奉行モ公事方ト御勝手方ト兩樣ニ分レ公事方ハ專ラ地方ノ裁判ヲ司リ御勝手方ハ錢穀ヲ司リテ全權ハ御勝手方ニ在リ若年寄ハ御老中ノ次席ニ

シテ位貴シト雖トモ實力ニ至テハ往々御勘定奉行ニ及ハサルモノアルガ如シ全權ノ御勘定奉行ハ其名義御勝手方トアレトモ權力ノ及ブ處甚タ廣クシテ錢穀ノ出納ハ無論、凡ソ政府ノ機密一トシテ關係セザルハナク幕臣ノ黜陟モ内實ハ其手ニ成ルモノ少ナカラス且其人物ハ必ズシモ大祿ノ旗本ノミニ限ラス往々卑賤ヨリ立身シテ其地位ニ昇ル者多キガ故ニヨク世間ノ事情ニ通達シテ活溌力ニ乏シカラズ之ニ反シテ御老中ハ所謂大名ナル者ニシテ動モスレバ下情ヲ知ラズ之ガ爲ニ〓ニハ御老中ニシテ却テ御勘定奉行ニ依頼スル者アル程ノ勢ナリト云フ此外ニ大目付御目付等モ權力ナキニ非ザレトモ畢竟表役ナレバ唯成規ヲ守テ之ヲ維持スルノミニシテ臨時ニ事ヲ左右スルノ地位ニ非ズ又内向ニ御側取次ナル者アリテ甚ダ有力ナルニ似タレトモ其力ハ唯將軍ノ座右ニ近キガ爲ニ得ルモノニシテ廣ク政事上ニ事ヲ爲ス可ラス此他御奏者番ナリ諸番頭ナリ毫モ政府ノ機密ニ關スルヲ得ス全ク

無力ノ者ト云テ可ナリ右ノ次第ニ付御勘定奉行ハ幕臣十目ノ屬スル所ニシテ籏本御家人ノ有志者カ畢生ノ力ヲ以テ青雲ニ志シ其目的トスル所ハ唯コノ地位ニアルノミ即チ羨ム者多ク、妬ム者多ク、之ニ代ラント欲スル者多ク、之ニ代ルヲ得ザルモ其失路ヲ見テ悦フ者多キ地位ナリ結局一身ヲ以テ永年ニ持續ス可キ地位ニ非サルナリ其事實ヲ證センニハ文政元年ヨリ慶應三年ニ至ルマデ五十年ノ間ニ御勘定奉行ノ御勝手方三十六名アリ二人勤ナルガ故ニ之ヲ折半シテ在職ノ新陳交代十八代ナリ之ヲ平均スレバ在職ノ一代二年七分七厘ト爲ル其永續ノ難キヲ以テ見ル可シ之ニ反シテ彼ノ御奏者藩諸番頭等ノ如キハ殆ト終身官ノ有樣ニテ他役ニ昇進スルニ非ザレバ十年モ廿年モ一處ニ止メ動クコトナシ其寥々タルコト恰モ山居無事、人ノ來テ訪フナキ者ノ如シ竊ニ案ズルニ英亞諸國ニテ司法官ハ大抵終身官ニシテ嘗テ故障ヲ見ザルモ其原因ハ事務ノ靜ナルカ爲ナル歟、固ヨリ彼ノ司法

官ト日本ノ御奏者番又ハ御目付等ヲ比スレハ其性質全ク異ナルモノナレトモ西洋諸國ニテハ議政行政司法ノ三權其分界甚タ明白ニシテ司法官ノ職掌ハ唯一定ノ法ヲ守ルノミノ事ナレハ自カラ社會ニ威禍ヲ及ボスコト少ナキガ故ナラン人民ノ耳目ヲ屬シテ最モ煩ハシキハ議政行政ノ樞機ニ在ルモノト知ルベシ