「貧人を中央市場場外に移すべし」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「貧人を中央市場場外に移すべし」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

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貧人を中央市場場外に移すべし

東京市區改正の議論と輿に近時世上の注目を引起したる問題は府下下上水供給及び下水排除の議論にして既に去る二十二日東京府下の紳商諸氏は坂本町の銀行集會所に會合し水道拂下の儀を政府に請願する下相談を爲したる由なり今日の水道は工事甚だ疎末にして地底の木樋概ね腐蝕し神田玉川の諸上水、泉源は清潔なれども延て東京市中に入る時は惡水泥雨混同して飮用に堪へざるもの比々皆是ならざるはなし府下百分の生霊平素これを用ひて聊かも衞生の點に注意せざるは文明國民の人事に對し似合はしからざる次第にして水道改良の擧最も大切なりと云はざる可らず又下水といへども同じことにて溝渠の敗壞甚しければ惡水の排除路なくしてその卑漏限りなく穢奧汚泥殆んど名状すべからざるは善く世人の知悉する所ならん故に此趣を一層激しく形容すれば東京府下には殆んど上水下水の區別なしといふも不可なき程にして山の手邊地勢の高燥なる處に限り上水も堀井なれば確かに此區別ありと雖も一般下町と唱ふる地にありては溝渠の惡水颯々と水道に浸入して人々汚泥の中に吸飮するは如何にも人間の生活にあるまじき談なれば其排水の工事は兔も角も先づ上水下水の區別を附けて飮用水の清淨を謀ること取敢へず肝要なる可し銀行集會所に會合したる諸氏が政府の手より水道の拂下を請求せんとするの精神は之を以て純然たる私立の會社を起し上水の使用者に便利を輿へんと欲するにあるか我輩の贊成する所にして早く其事の成功を所望すといへども爰に實際を顧みて困難と思はるゝは首府の中心に貧人が居住を占めて改良水道に妨害を輿ふるの一事なり蓋し水道會社が上水を改良して各家に其供給を爲すにつけては使用者より相當の代價も申請けて社の維持營業を立てざるべからざるが故に其上水の代價は今日に較へて高價なること勢ひ免れ難くして貧人は乃ち相替らず舊時の井水を飮用するの情實もありとせば折角なる水道の改良は其功を全うせざることなきや私立の會社に特許を輿へて一切舊來の水道を潰ぶし、新規清淨の上水を飮用すべしと強迫の手段にて改良を行ふも所詮六ケ敷次第なれば唯之れを使用者の隨意に任ずるの外なかる可し然るときは高價の水鐵を携ふて新會社の水を仰ぐものは唯中等以上生計餘裕なる家にのみ限り水道の區域は廣くして水を用る家の數は少なく會社の經濟に於て其維持難かる可し又下水改良の工事の如きも適當の方法を以てすれば必ずしも行れ難きにあらず暗渠を設け鐵管を敷て各家の廢水を綜合し、これを河流に落すまでの其費用を尋常の商家に課して負擔せしめたらば容易に功を奏することならんと雖も貧人の雜居亦これを妨げて市街排水の不便をなすこと實に淺尠ならざるものあり今日府下の排水法を見るに尋常商家の居住する處に於ては不完全の程度割合に少なけれとも貧人の居住する小路狹街に至る時は惡水排去するに由なくして穢濁の甚しき惡疫の禍根潛にこの處に伏在するが如し即ち下水改良の最も行はれ難き處に改正の要最も急なるが故に今の儘の東京にてはその實行所詮覺束なしと云はざる可らず或は仮りに政府より五六百萬萬圓の大金を抛ち下水改築の大土功を起すとせんか其策は甚だ妙なりとするも土功竣成の後に至りてこれを營繕保守するものは難なるべきや衞生の道理も知らぬ貧民の濫用に任じて排水の良法亦その用を全ふすること能はざる可し以上々水と云ひ下水と云ひその改良完全の方法も東京の中央市場が貧人の巣窟たる其間は皆容易に行はれ難しとして暫く之を放棄するの外なきものゝ如し

市區改正の計畫事業は一にして足らず例へば家屋改築の事の如きも日本帝國の首府たるこの東京を飾るには高樓大廈巍然として櫛比兩街を壓するは望ましき次第ならずや中央市場の要衝に見る蔭もなき矮屋軒を列ねたるは其体裁甚だ宜しからず海外交通の繁劇なる今日日本に來遊する西洋人の數も日一日と増加する手前もあり中央市府の改造は我輩贊成の事業なれども又何故ありて今日まで東京商家の家屋が爾く矮小疎末なりしかと其仔細を尋ぬれば原因の一つは火難を畏れたるに出でさるなし試に東京市街の樣を見るべし八百八街の表通りこそ尋常の商店なれ内部は即ち貧人の巣窟にして裏店社會の日傭人足たゞこれに充滿し家屋といへば杉皮小羽板ならざるなく今日に至りては屋上制限の設け行はれたりと雖も其構造の疎末なること驚くべく一戸火を失すれば幾百の小屋皆化して束薪となり其延燒は所詮免れ難くして東京の商人は恰も中心に火事の卵子を包みその四方四面に家屋を築造するものに異ならず類燒の患に汲々として朝に夕を保たざる中央市區に高樓大廈の顯出すべき謂れある可らず或は目下其筋にて嚴行中なる衞生監督の法と雖とも貧人雜居の爲めには亦前條の妨害を免るべからず本年は幸にして候季順當、惡疫の流行なしと雖も昨年は之に反して三伏の暑中にコレラの蔓延府下の生靈殆ど生色なく東京の商賣中絶の姿に立至りたるその原因も貧人雜居の弊にあらずや要するに東京の中央市區を改正せんとならば先づ貧人を朱引外に別居せしめざるべからず、貧人の雜居を許すときは既に成るの改正市區も亦再び破壞を受けんこと必然にてその未だ成らざるの市區改正は尚々以て然るものと謂ふべきなり人或は貧人を中央市場に置くも自から市場繁榮の一助なりと思ふ者もあらんかなれども是れはむかし火事を稱して江戸の花と名づけたるの意味に異ならず無稽の甚だしきものと云ふ可きのみ故に方今上水下水の事なり又家屋改良の事なり都て市區の工事に付ては其着手の前に先づ今の市中の貧人を中央市場外の地に移すの工風あらんこと我輩の希望する所なり