「政事家の進退」
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時事新報に掲載された「政事家の進退」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
政事家の進退
昔より東洋諸國にては政事家の進退甚だ窮屈にして其主義技倆に於ては毫も間然する所なき人物にても其出處進退の際に於て大に困却するの例甚だ少しとせず蓋し東洋諸國の政體に於ては政事家の地位を得るや素より公衆の推選に出づるにあらず單に君相數人の知遇を得て其位に昇るものなれば明良相遇ふて意氣投合するに當ては其間魚水も啻ならず名は君臣といふと雖ども情は父子に均しく言ふて聽かれざるはなく聽かれて行はれざるはなくに千載の一遇にして愉快此上もなき次第なりと雖ども不幸にして一朝君の逆鱗に觸れ其言用ひられざるか、若しくは同僚の大臣と議合はざるが如き場合に立至るときは其進退如何す可きや平生の情義、さすがに己れの一身を潔ふするに忍びざるの意味合なきにしもあら左ればとて斷然勇退して急流の中に其節を全ふせんとするも政事は政府の機密にして國の政體に於て妄りに之を世に公けにするを得ず我一身の心情は光風霽月天地に俯仰して愧る所なしと雖も漫然たる世上の耳目は甚だ不明にして其心情を察せず我を呼んで馬となし牛となす人情誰れか之に對して不平なきを得ん滿胸の憂鬱慰むるに所なく江湖に放浪し澤畔に長吟すれば其韵總て不平の調を帶びざるはなし廟廊の高きに居ては其民を憂ひ江湖の遠きに處しては其君を思ふなどとは總て是れ不平の餘言のみ其眞情にあらざるなり而して其迷惑を蒙むる者は獨り落路の政事家に止まらずして其君相政府も亦物論の爲めに多少の迷惑を受くるを常とせり退けば君に忠ならず退かざれば心に負く東洋政事家の進退亦窮屈なりと謂ふべし然るに西洋諸國の事相は全く是と反對にして殊に黨派政事の行はるゝ國柄に在ては内閣の諸大臣は素より主義を以て相合ふものなれば其間に不和異見のあるべき筈はなれとも若しも國家の一大事件に關し内閣中に議論の合はざる者を生ずるときは異論者は公然其異見を陳述して内閣を去るが故に當局者の進退甚だ自由にして世間の公衆も亦その間に疑訝を逞ふすることなく隨て何人も之が爲に迷惑するものとてはなし本年春の頃なりと覺ゆ英國の大藏大臣 ランドルフ チョルチル卿が財政の事に就き現内閣の諸大臣と議合はずして職を辭したりしが時にチョルチル卿は内閣に辭表を差出したる其歸途、直にタイムス新聞社を訪ひ社長に面會して何か談ずる所ありたりしにタイムス新聞はその翌朝の紙上に於て卿が辭職の顛末を事明細に記載して世に公けにしたる一談柄は猶を明かに世人の記臆する所にして西洋文明諸國の政事家が其進退の自由にして其擧動の公明なる最近の適例として見るべし
我國にても一昨年政府の改革に内閣の組織を一變し謂ゆる責任内閣の端緒を開き當時内閣總理大臣が訓示したる施政の綱領も其實施の困難なるにも拘らず政府は鋭意して頻りに其施行に着手中なれば遠からず施政の順序も次第に運びて〓に責任内閣の實を收め遂には政略公示の擧にも至るべきは世論の擧て希望する所なり況や目下日本の政事に於ては條約改正の事、軍備擴張の事、憲法制定の事、財政整理の事等いづれも重要焦眉の大問題一にして足らざれば政府が此等の諸問題に就て其政略の在る所を公示するは實に今日の必要と申すべきなり斯る折しもこの頃來世間の風説に依れば此程海外より歸朝したる某貴顯には國家重大の事件に關して意見書を内閣に呈出し大に論議する所ありたるも閣議の容るゝ所とならずして却けられたるに付斷然辭職する事に決心したりと云へり我輩は其事の詳細を知るに由なかりしが一昨日に至り此程歐米諸國を巡廻して歸朝したる谷農商務大臣は願に依て其職を免ぜられ土方宮中顧問官が其後任と襲がれたり左れば前の謂ゆる其貴顯とは谷農商務大臣の事にてありしならんか將た是の意見書なるものは其何事なるやを知る能はずと雖も苟も國家重要の事件とあれば目下の大問題たる條約改正以下の事項に關する事にてもあらんか若しも然らば今度こそ好機會なれ政府は固より辭職の當局者も諸共に其政略と意見とを世に公けにして公衆の怪訝を消し雙方ともに思ひも寄らぬ迷惑を蒙むらぬ樣、用心するよう智者の事と申すべし我輩は東洋の臭氣を脱して漸く責任内閣の形を成しつゝある伊藤總理大臣の内閣が今度の出來事を手始めとして政略公示の端を開かん事を偏に希望するものなり
〓 (玄+玄)