「条約改正會議延長」

last updated: 2021-12-25

このページについて

時事新報に掲載された「条約改正會議延長」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

井上外務大臣が就職以来、外國の交渉は隨分多端にして、國の利害に關する大事なきに非ざれども、其大事中

の大事にして、然かも歳月の久しきに亙り日本全國人民の常に注意して忘れざるものは、特に條約改正の一事な

る可し。此事たるや寺嶋舊外務卿の時にも談判は始終引續きて、時に大に起り又暫く止むなどして徐々に進歩す

る折柄、今の井上大臣が之に代りて大に面目を改め、曩きの談判は重もに海關税の方に向きたるものが、今度は

關税の事に兼て又法律上の談に亙り、治外法權云々の問題に論及して、扨ては内地を放開して内外人民の雜居を

許すとまでの英斷に及び、昨年夏以來は改正の會議を催ほすこと頻々にして、世上の風聞に據れば其結局も近き

に在る可しとの事にて、吾々新聞記者は無論、世上一般農商工の種族も日に其發表の時を待ち設けたることなる

に、昨今橫濱の橫字新聞紙を見れば、日本駐在の諸外國全權委員は、日本の全權委員の意見を採用して、領事裁

判を廢するの改正條約草案に同意を表して、去る四月中この草案を歐洲各國の政府に送致し、其後通商條約の草

案も編成濟となり、夫れ夫れ本國政府へ囘途したる趣なれども、日本政府は今は當時取調中なる新法律の編纂を

了るまで條約改正會議を延期することを望むものと見え、既に井上外務大臣は過る金曜日(七月二十九日)を以て

條約改正會議は延期す可き旨、各國の公使へ公然通牒したる趣なりとあり。

左れば我政府は是れまで鋭意條約の改正を談判して、將さに其緒に就かんとするの場合に至りたれども、新に

法律規則を編纂するは中々以て容易なることにあらず、いよいよ治外法權を撤去して雜居となる上は、内外人の

共に同一の國法を遵奉して、外國人の身にも自由を失はしめず、又内國人の爲めにも便利にして、以て日本の治

安を保ち、以て日本の國權を維持す可きこと、最第一の緊要なれば、斯る法律規則を大成する爲めに、止むを得

ず改正の談判を延期したることなる可し。誠に至當の處分にして、我輩の持論に於ても竊かに贊成の意を表する

ものなり。囘顧すれば數年以來、我國事の重大なるものは此改正の一條にして、國民一般これに意を注ぐのみな

らず、政府に於ても專ら此一方に力を用ひ、海外に派遣する公使領事の人撰配置より、我國に在留する諸外國の

外交官等に接する其交際法に至るまでも、決して等閑に附したることなきのみならず、國を放開して彼我相互に

同等比肩の生活を爲さんとするには、内治の趣も自然に西洋文明の風を帶ること必要なれば、法律の改良は無論、

警察の組織なり、監獄の體裁なり、次第に面目を改めざるものなし。之が爲めには當局者の心勞は申すまでもな

く、多少の金をも費したることならん。尚ほ事の細にして廣き部分に至りては、人民一般が全國放開内地雜居と

聞傅へ、外國の事情を知らんとするに急にして、俄に洋學に志し、或は内外の敎師に就て學ぶ者あり、或は自か

ら海外に渡航する者あり、是等は固より無疵なる擧動なれども、往々利を見るに穎敏なる商人等の中には、雜居

を目的にし又名義に用ひて土地を賣買し、或は工業を起し商法を組立てゝ機に投ぜんとする者さへ少なからず。

之を要するに條約改正の談は全國中誰れ一人として其詳なる箇條を知るものなくして、誰れ一人として之に利害

を感ぜざるものなし。其重大事件なること以て知る可し。左れば當局の外務大臣は申すまでもなく、現政府の内

閣員はこの改正に就き重き責任あるものにして、瑕令へ今囘延期したりとて、到底止む可きにあらず。我輩は彼

の新法律の速に大成して、條約改正の結局を見んと欲するものなり。             〔八月四日〕