「條約改正の談判は取消しにあらず」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「條約改正の談判は取消しにあらず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

條約改正の談判は取消しにあらず

條約改正會議延期の風聞一度び世に行われてより説を作す者あり云わく延期は無期の延期にして際限ある可からず故に今日の事〓を云えば此延期を以て從前の談判は一度び之を取消し更に端諸を改めて再び改正の新談判を開くか是れも從前の行掛りにて實際に行わ〓難きことならん左れば延期は唯だ名義のみにて其實は際限なく中止して外國の關係は今の條約のまゝに持續するの外ある可からず改正會議延期は延期にあらず改正取消と認む可しなど〓々する者あれども我輩の所見は甚だ之に異なり今回の延期は唯一時の延期にして暫くの猶豫を得るのみ今の内閣のあらん限りは必ず改正の事を大成して滿足を得せしむ可きは疑を容れざる所なり其次第を述べんに

第一條約改正の事は我天皇陛下より今の内閣に命じ給いし所の大事にして内閣員は都て其責任を帯るのみならず特に外務大臣は改正の談判に付き全權をも委任せられたることなれば今日に至りて改正の儀不調とありては上天皇陛下に對し奉りて責任を全うせざるのみか下人民をして失望せしむることなれば如何なる困難あるも此一大事を半〓にして取消すことは相成り難し若しもいよいよ不調とならば内閣員は一同その〓〓を決して責任の重き所以を内外公衆に明にせざる可らず故に今の内閣のあらん限りは必ず改正の事を大成す可しと我輩の信じて疑わざる所なり

第二今回の延期は他に原因あるにあらず唯だ新法律取調べの爲めに時日を要するが故なりと云えり如何にも至當のことにして我輩が前日(八月四日)の紙上にも其大略を開陳したる如く外人の治外法權を撤去して内外國人を一色なる日本國法の下に統御せんとするには其法を講究するに日月を費す可きは論を俟たず法律の性質は成るべく外國人の身に〓するを貴ぶと雖ども本來何れの國にても法律は國民の習慣より生ずと云うなどのものにして如何なる良法にても民の習俗に〓せざるものは用を爲さず之を喩えば食物の如し今西洋食と日本食とを比較して良否如何と尋れば之を化學生理學に徴して洋食の方〓に美なりと雖ども〓これを美なりとして頓に日本人に與えんか必ず之を悦ばざることならん若しも強いて食わしむるときは或は〓氣を催す者さえなきにあらず盖し食物は國の習俗祖先の〓〓に由るものにして我日本人は數千年來濃厚の餌食に慣れざるが故に品物の性質如何に論なく唯これを悦ばざるのみ法律の〓否も亦斯の如し文明の法律美なりと雖ども之に慣らざるものは其美を知らず、之を知らざる者は其德澤に浴するを得ず、誠に堪え難き次第なれども國民一般をして良法の良なるを了解せしむるには彼の洋食に慣れしむるが如く漸次の方便に由るの外ある可からず左れば今我國に於て條約改正の事を目前に見ながら之に應ずる方便として俄に法律を作るが如きは實際に行わる可からざる事業なれば之が爲めに多少の歳月を延期するは怪しむに足らざることなり唯だ我輩の特に祈る所は此法律を議定する方法、又雑居の後に之を施行する實際に當り外國の人に向て怨す可きは十分に怨し、許す可きは十分に許して決して頑〓の節を立るには非ざれども唯彼我同等の一大義に至りては毫厘も之を〓ぐることなく私權國權共に凛然として〓くなきの一事に在るのみ

第三或人の憶測する如く今回の延期は眞に一時の延期にして取消しにあらざる其實證を云わんに凡そ人間社會の事相は逐一有形の實物を枚擧せずして全體に知る可きものなり世の形勢と云い又は風潮と云うが如き即ち是なり市に入れば市の形勢を知る可し田舎に往けば田舎の風潮を見る可し婚禮の家と不幸の家とは内に入らずして戸外より之を窺い知る可し左れば今日日本の政治社會は無論、廣く民間に至るまでも其全體の形勢風潮は如何と尋るに條約改正の中に在るものと云わざるを得ず政府の外交は申すまでもなく其内治百般の細事に至るまでも間接直接に條約改正の事に〓絡し此事も改正に關して云々其物も改正の時には云々とて其内部の實際こう知らざれども恰かも政府の戸外に立つものにても其政略の大概は推して察せざるものなし左ればこそ公けに條約改正の有無を知る可き〓もなき民間に於ても公然それを談じて疑うものもなく人民の貧富大小相應に其用意を爲して忙わしく之を要するに日本國人は其官民上下を問わず條約改正を以て其形勢風潮を成し行掛りの退歩す可からざるものなれば今にして其談判不調などゝて俄に取消す可きに非ず若しも之を取消さんとならば政府全體の改革は申すまでもなく人民一般に其覺悟を改めざる可からず今日の官民に斯る變動ある可きや我輩は容易に然らば則ち改正の談判取消しにあらざるを知る可きなり