「土地相應の事業に從事す可し」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「土地相應の事業に從事す可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

土地相應の事業に從事す可し

農産物と云い製造品と云い土地の異同に由て各々其宜しきを別にするものなれば天の時を得て地の利に合い多年この地方人民の手に慣れたる事業は勞費少なくして利潤割りに多しと雖ども土地不相應の製産は利益毎に薄くして徃々損失を招くことさえ少なからず地方民間の實業に從事する人々は能く能く其土地の勢を審にし兼ねて他方海外の情を知りいよいよ利益の在る所を見定めて製品農産の方向を極むべきなり某の物品或は其地方にて出來ざるに非らず出來て利なきにも非ざるべしと雖ども他の地方にして天時地理兩ながら宜しきに叶い勞費を少なくして同様の物を得べき道もあらば其事業をば他に譲りて我れは我が所長を盡し自他相頼て各々其利益に潤わんこと實に殖産經濟上の要訣にして之を是〓分業の利便とは謂うなり〓來地方の有樣を聞くに僅かに方幾里の内にて萬物悉く備わり日用の品より贅澤に属するものに至るまでも皆賣物にあらざるはなく然かも其物は其地方の製作に係るもの多くして物産日に繁昌する趣を見る可しと云う、一通り此話を聞けば賑かなるが如くなれども殖産經濟の大策より考えて果して賀す可き事なるか我輩の見る所にては却て其反對を恐るゝものなり我封建の時代には外交未だ開けず内地藩々の間にても境を越えて有無相通ずる道極めて不自由なりしが故に本意なくも天時地利を〓わずして一地方入用の物品をばその地方人民の手に製し農工商賣共に悉く方幾里の内に限らせて恰も萬物を包羅したる萬屋とも名く可き有樣なりしは其時代に止むを得ざる勢なりと雖ども今は昔しと事變わり内は藩屏の限りなく外は外國の交際を開き貿易自在にして分業行われ同じ物産を出すにも各地諸方の天時地利を参酌して各々得意の業に從事し他人の受く可からざる利益を我れに専らにすれば他人も亦我が企て及ぶ能わざる利益を〓し世界萬國相持ちの姿となりて或人の考に日本全國の物産も其重もなるものは僅に一二品に限りては如何とまでに云う者さえある折柄顧みて地方民間の實業を見れば却て其反對に出で新事業の科目を増して物産の種類に多きを加えると共に舊來の殖産法は都て之を怠り新製の物いまだ以て商賣市上を動かすに足らずして舊時の商賣品は漸く市上に跡を絶ち兩つながら失いて得る所なき事相を呈するものあるが如し抑も殖産の事たるや前にも云える如く天時地利に關し又その地方人民の習慣熟練に由りて便不便の分るゝ所甚だしきものなるに漫に舊物を棄てゝ新利を求めんとし、奇を好む甚だしきものと云う可きのみ例えば其地方は元來紙類の製造に適し民間既に其習慣を成して毎年の販賣少なからざりしに製紙家は他所より輸入する陶器の高直にして如何にも利益ありげに見ゆるより忽ち新案を運らし〓〓の〓傍に粘土あるこそ幸いなれとて陶器の製造を新設し、其新事業いまだ緒に就かざる際に又漆器を作らんとし、漆器いまだ成らずして更に銅器に着手し、竹の乏しき地方に竹細工を企て、材木の不自由なるにも拘らず造船塲を設けんとするが如き心事多端にして新工風に忙わしきは如何にも殖産の繁盛なるに似たれども顧みて舊來の製紙如何を見れば年々い其産出を減ずるのみか事業の衰微と共に先進の職工は其身に覺込みたる伎藝を忘れ後進の者共は熟練の方便を失い遂に一地方の物産を斷絶する事實なきにあらず、以上は唯一例に示したるまでなれども製紙に限らず日本國中の物産を吟味したらば舊時の繁盛を失いて頓に衰微したるものは枚擧に遑あらざる可し而して其衰微は一時の世變に需要を減じたるが爲めに由るものも多かる可しと雖ども若しも然るに於ては内國を問わずして海外の需要を調査すること肝要なる可し我國の物産は遠く歐米に行て聲價を得るのみならず近く支那人の好尚に適す可し又進んで〓羅安南より大洋諸嶋、到る處に需要を見ざるはなし唯海外販賣の要は品の種類の雑〓にして數の少なからんより苟も商賣品と名けたらば其品の〓粗、價の高下に論なく寧ろ一種類にして其仕入の斷絶せざるに在り左れば今我殖産には漫に新奇を爭わずして舊來の習慣伎藝を其まゝに利用し品柄の良否に論なく規模を大いにして多數を製し海外貿易の本法に從わんこと我輩の特に冀望する所なり