「都人士と地方人士」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「都人士と地方人士」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

都人士と地方人士

東京〓穀の下に徃する者これを稱して都人士と云い各地方の府縣下に在る者それを地方人士という素より同等一樣の人間にして其人物に差等のあるべき筈はなけれども互いの交際上に於て地方の人は自然に上に立つを得ず或は田舎漢、山出し等の名を蒙りて都人士の間に重きを爲すこと能わざるを常とせり地方の人とて悉皆愚なるに非ず時としては其〓〓擧動、都人士の〓を破るものなきにあらずと雖ども一般に平均したる處にて都人士は何となく活〓怜〓に見え地方人は如何にも迂濶遲鈍の樣に思わるゝは何ぞや元來、人の擧動に智迂鋭鈍の差あるは生來の稟賦性質に原因するものも多からんと雖ども今日の實際に於て多く事に接し廣く物を知り謂ゆる知識の多少廣狭に關する例も亦爭う可からざる事實なり故に今都下は知識の焼點にして爰に住居する人々は其智愚に論なく日に新奇の事物に接し其耳日常に新にして見聞廣く随つて世に處し事を理する擧動も自ら活〓の風あれども之に反して各地方の住人は常に新事物に接する機會を得ずして見聞を限られ心事自から萎縮して活〓なるを得ず之が爲め毎事都人士に先んぜられて其後に落るが如きは我輩が傍より觀て遺憾に堪えざる所なり左れば都鄙人物の差異は智愚賢不肖の別にあらずして日新の事物に接し之に應ずる身構の遲速に在るのみ又その事物に接する機會を得ると得ざるとは〓輸交〓の便不便に在りと云うべし今を距ること三十餘年封建鎖國の時代に江戸長崎の旅行には一箇月餘を費し松前箱館など云えば海外異域の思いをなしたる其頃には都鄙の懸隔甚だしく其間に智迂鋭鈍の差も非常なりし其例は嘉永年間米國の使節ペルリが軍艦を率いて相州浦賀に渡來し〓商貿易の事を時の政府に要求せし折の如き朝野の狼狽一方ならず和戦の議論紛然として江戸〓傍の騷〓は筆紙に盡し難き程なりしが西國及び東北などの藩地に遠かりたる田舍地方にては江戸よりの私信、又は世間の風聞等によりて始めて其事實を承知したるは數十日後のことにして甚だしきは米艦既に日本海を去りたる跡にて先般江戸に云々の事變ありしと傳聞したる者さえありしと云う當時若しも日米間に戦端を開く不幸もありしならば僻〓地方の日本人民は其首府たる江戸城砲戰の後、幾十日にして初めて米國の使〓浦賀に渡來の新聞を耳にしたる奇談もありし事ならん交〓の不便、以て悪い見るべし左れば斯る時代に在ては都鄙人智の懸隔あるも亦致し方なき次第なれども今日の日本は事體全く殊にして蒸氣電信郵便等交通の利器大に備わり日本國中如何なる地方と雖ども書信の徃復を合して一箇月以上を費す處はなかる可し中にも電信鐡〓の相〓ずる地方に至ては其便利隣家に均しく唯坐して相語るを得るのみならず意あらば即ち起て自から行くべし千里比〓の譬えも〓ならざるなり如之今の世には新聞紙なるものありて日々世界萬般の出來事を記載し交〓の利器によりて之を全國に傳播するが故に地方〓隔の人にして世の新事物を聞知せんと欲する者は一案の紙、〓〓の價、坐ながら内外の事を網羅すべし之を昔時一二箇月を經たる後朋友親戚の私書によりて〓に江戸の〓〓を知り得たるものと其便否固より同日の談にあらざるなり而して此今〓の變化は謂ゆる〓輸交〓の利器によりて都鄙を一樣にし人智を平均し田舍漢を東京〓に化せしめんとするものなれば地方の人士こそ最も此變化の利益を利す可き筈なるに今日の實際に於て或は然らず地方人士は舊に依て都人士の下風に立つ形跡あるが如きは我輩が特に其當局者の爲めに氣の毒に思う所のものなり今其一例を云えば目下東京にて發行する新聞紙發賣の割合を聞くに凡そ其發行高の半數は府下にて賣捌き他の半數は各地方に行く割合なりと云う今、日本全國の人口三千七百萬人の内東京の人口を百四十萬人とすれば其餘の三千五百六十萬人は〓ち各地方の人口なり而して東京に於て日々發行する各新聞紙の數を假りに十萬枚と定め其半數五萬枚は府下にて賣捌き他の五萬枚を各地方に送るものとするときは都下の人は二十八人に付一枚の新聞紙を讀むに各地方の人は七百十二人にて僅かに一枚の新聞紙を讀むに過ぎざる割合なり之は單に新聞紙に就ての一例に過ぎざれども以て地方の人士が文明の利器を利用するに於て其活〓の度、未だ都人士に及ばざる一斑を知るに足るべし〓輸交〓の世界には地に都鄙の別なく人に賢愚の差なし都鄙賢愚の分目は唯文明の利器を利用するとせざるとに在るのみ今の日本に於ては〓輸交〓の便未だ全く十分ならずというと雖も苟くも之を利用せば都人士と競爭するに於ては〓に餘裕あり地方人士は之を利用して都人士の〓を破り後に〓若たらしむる迄ならずとも責めては田舍漢、山出しなどの名を脱するに意なきか我輩の偏に希望する所なり