「版權の保護」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「版權の保護」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

版權の保護

古來東洋流の考えにて著書出版の業は己れの志を言い天下國家の爲めにし世〓人心に補益するを以て主眼を爲すものにして時としては其〓の當世に行われざるを憤り著書以て知己を千歳の後に待つと云うが如き心志極めて高尚にして著書一身の利益云々の思想は會て其間に徃來したることなし事甚だ美にして嘉みす可きに似たれども所謂儒林の流風にして人の生活を重んずる文明の政界には永く行わる可き筆法にあらず今日に於ては著書出版の事も亦純然たる其人の財産たる可きが故に政府が出版物に對する取締は全く財産保護の〓神に出でゝ他の考えを混用せしめざること大切なる可し〓日までは此書は風教に益あるを以て出版を許すべし又世治に害あるがゆえに禁止すべしと恰かも公益一片を主眼にして裁決を爲すの仕來りなりしも出版條例の制定以來版權の法定まりて其著作翻譯に論なく三十年間専賣の特權を附與し、其外に版權享受を保護する條々の厚きは古來の風習を洗盡したる美學なれ共今日出版者の實際を見れば條例の如何に拘わらず財産保護の〓神尚お未だ充分に行われざる觀なきに非ず遺憾なりと云う可し法律の文面には出版届、版權願ともに草稿の檢査を要する塲合にのみ之を徴する制限なれ共出版者に於ては草稿を添えずして却て不意に徴収を促さるるよりも念の爲めに最初より之を附する安全なるに若かずとの用心よりして大〓は出版前に版權願と共に草稿を呈して其筋の檢査を待つ風を成したり故に正直にして思慮ある著譯者は常に此順序に從て其間の手數甚だ簡便ならざれども他の狡猾なる著譯家にして恰かも出版の投機者とも評す可き者共は其書の完成せざる一部分を抄出して版權の許可を求め或は實は一冊のものを三冊に分ち第一冊の草稿を呈して先づ全部の版權を取り第二第三をば徐々に著譯して世に出すものあり一目この事實を見れば別段不都合もなきに似たれども内實は版權を先きに占めたるが爲めに偶然に正業者の筆勞を徒勞に歸せしむることあり或は偶然ならずして巧に其腹案を偸み又は其草稿を瞥見の際に〓し取りて其立案に模する等樣々の秘密手段を以て大なる妨害を爲す者さえなきに非ず律儀なる著譯家の爲めには實に氣の毒なる次第にこそあれ竊に西洋諸國の事例を案ずるに政府が出版の取締を爲すに二樣の區別あり一はシブレッシーブと稱して〓に世に顕われたる出版物のいよいよ治安に妨害あるか但しは又特別の法律を破りたる其跡にて販賣を禁止し或は印刷書を没取するものなれば之を禁〓法と譯して可ならん二はプレヴェンチーブと申して即ち政府が豫め原稿を檢査し果して治安に害ある可しと認めて其刊行を禁止する制なり之を豫防法という例えば露國などにて政府が先づ出版物の原稿を檢査して其中に危險の文字ありと思えばこれを塗抹改〓せしめ尚お其憂患の絶えざるに於ては悉皆其書〓を不認可にする事例にして随分干渉の甚だしき法律なれば他の文明諸國の政府に於ては全く趣を殊にし其出版物に對する取締は唯何樣の著書にても其書〓が世に顕われて公然治安を害したる塲合に之を禁〓する制規なるのみ何となれば出版物は版權主の正當の財産にして其使用上社會の公安を妨げざる限りは政府より財産權の享受を差止めらるゝ條理なければなり例えば新聞紙は一箇の營業なり又其社の財産なるものを若し政府に於て日々草稿を徴収して豫防的檢査を行いたらんには其不便利機何なるべきや新聞紙に從事する人々箇々の良心は決して公安妨害を〓しとするものに非ず正當の範圍内に在て其業を營むものなれば平生は政府の監督を要するに及ばざるなり著譯出版の事も恰もこれと同一にて出版以前草稿の檢査には其用なくただ其書の公然治安を害する廉あるに至りて發賣を禁止する事猶お新聞紙に禁停止を命ずるが如く、行政上臨時の處分を施すこと正當なる可ければなり日本出版條例の〓神は前記豫防の法に出でたるものにあらずして即ち出版物を版權主の財産と看做したる寛大の思想に、更に治安妨害の考案を以て少しく制限を加えたるまでに〓ぎざれ共其區畫判然たらずして民間の憶測窃に草稿の檢査を受けざれば出版も不安心なりという疑心を懐くは我輩に於て遺憾なしとせざるなり故に此條例の〓神を一層明ならしめんが爲め其所望を申さば第一に出版物は其書竣成の後を待てこれに版權を許し以て未成立の權利者が狡猾なる競爭をなす弊を矯め第二に版權の登記即ち認定は出版者より手數料(實は版權税)を納め次第、何人にも同等に之を附與すべく第三に又其書冊果して治安に害あるものならば出版後に政府之を禁〓するも決して遲きにあらざるなり或は斯く言わず兇暴の論客輩が法網の緩に乗じて激烈なる著譯を公けにする危險畏るべきに似たれども政府には〓に禁〓の權利あるのみならず法律を以て此危險を豫防せんとする策は實際其功なくして正當なる著譯者のみ獨り其迷惑を蒙むること西洋諸國にも間々これあるの話しなれば寧ろ之を不問に附し只管出版者の德義に任せて檢束を加えざる方却て世〓の爲めに利益ある可しと信ずるものなり