「政略」
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時事新報に掲載された「政略」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
凡そ人として名利を好むの心あらざるはなし。名利に大小あり種類ありと雖ども、今の文明の程度に於て謂ふ
所の名利とは、家の生計豐にして多くの人に敬ひ尊まるゝことなり。而して此名利は一國社會の何れの部分に在
るやと尋るに、其國民の氣風に從て一樣ならず。例へば英米は商を重んずるが故に其名利は商責社會に在り、日
耳曼は武を尚ぶが故に武人の外に名利なし。我日本の如きは士族の末流、政治に熱するもの多きが故に、名譽利
益も亦政治社會に偏するの情あるが如し。扨一身に名利の歸するは至極愉快なることなれども、我れに愉快なる
ものは他人の身に取りても亦愉快なるが故に、既に之を得て得意なる者あれば傍より見て羨望に堪へず。是に於
てか世間に種々樣々の物論を生じ、動もすれば得意者を攻擊して其名利を妨げんとする者多し。甚だ煩はしき次
第にして、殊に政治社會に好地位を得たる者などは、物論の喧しきが爲めに時としては其施政を妨げられて意の
如くならざるの場合なきに非ず。抑も物論とは政府の施政上何事に付て何某が何等の反對論を發言したりと明白
なる議論にはあらずして、唯政府の爲す所とあれば何事に由らず不服を唱へ、誰れが之を唱へて誰れが之に和す
るにもあらず、唯到る所に喋々喃々して喧しきものを云ふなり。之を喩へば政治の意見に反對するものありて其
*三行読めず*
*一行読めず*
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓にして〓〓〓の如し。實に〓〓〓〓〓可からざるなり。蓋し一國の政府を立〓〓〓
は法律あり兵力あり、又これに加ふるに警察の仕組もあり、法に據て直を行ひ兵を以て不順を討ち、警察常に不
虞に豫備すれば更に憂るに足るものなく、天下の高所に居て衆庶の利害を察し、我が方寸の政略を實地に施して
國の利を興し身の名を成すこと、道理に於て容易なる可きに似たれども、人間世界は人情の世界にして道理の世
界に非ず。其有樣を評すれば七分の情に三分の理を加味したる調合物とも名づく可きほどのものにして、人事の
輕重に論なく其大半の運動は情に由て制せられざるものなし。經世家の最も注意す可き所は、唯この人情の運動
を察して其機を空ふせざるに在るのみ。古來和漢の君相が天下の人心に從ふと云ひ、近來西洋の政治家が輿論を
代表するなど云ふ其實は、唯人情に逆はざるの意味にして、道理を根據にしたる言にはあらざるが如し。例へば
戰爭は一國の大運動なれども、其動くや理に據るか情に出るかと尋れば、百戰大抵皆情なりと答へざるを得ず。
獨佛の戰爭早晩免かる可からずと云ふも、唯兩國相互の人情に由るのみ。數年前我國西南の役の如きも、細に其
原因を尋ねたらば多分は實情〔情實〕より生じたるものならん。甚だしきは戰端を開くに名義を作るの談あり。卽ち人情
より起る戰爭なれども、左りとは外聞不都合なるが故に、道理の名義を製作して之に附するとの意味なる可し。
左れば獨り戰爭のみに限らず、人間萬事の運動は情に出ること爭ふ可からざるの事實なるに、然るに今政府の手
中に在る法律、軍隊、警察等の力は、唯社會の外面道理の部分を制するのみにして、裏面の情に立入るを得ず。
彼の物論喋々など云ふは畢竟取留めたる道理論にはあらずして專ら人情談なれども、左ればとて單に情實の癡言
のみにもあらず、時としては道理の如く聞こえ、時としては愚癡の如く響き、情理混合唯喧しくして遂には人事
運動の原因たるものなり。竊に案ずるに、古今の政治家にして能く一世の治安を致したりと稱する者は、必ずし
も道理に明なるが爲めに非ず、唯巧に此人情を制するの才智と、不言の際に人情を滿足せしむるの德義とに由て
得たる成績なる可し。次に鄙見を述べん。 〔八月十五日〕