「鐵道營業の利潤は其起工を注意するに在り」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「鐵道營業の利潤は其起工を注意するに在り」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

鐵道營業の利潤は其起工を注意するに在り

我輩は前號の紙上に於て日本今日の鐵道事業は資本なきに苦まずして却て技師其人の不足なるより工事割合に進まず、隨つて折角の鐵道資本も早速に運轉の用を爲す能はざるの姿なれば臨時に外國より技師を雇入れ日本從來の技師と力を戮はせて工事を急がすの工夫は獨り利息の損亡を算用しても尚ほ大切なるの次第を述べたり然るに或る實業家の説を聞くに日本今日の鐵道技師は測量師建築者たるに論なく工事の需用に割合せて甚だ少數なるは爭ふ可からざるの事實なれ共彼れ此れ互ひに繰合せて順番に工師を轉用したらば別に不都合なかるべきが故に敢て外國より之を雇ふだけの必要を見ず東西南北同時一齊に起工して咄嗟間に全國鐵道の蜘網を張るが如き急激の手際を示す能はざるは如何んとも爲し難き情實なれども着々歩を進めて前途の計畫を立つるには不足ながら今の技師にて間に合ふべしといふあり保守の議論その理由あることなれ共我輩の所見を以てするに今日の如き少數不足の工師に依頼して強ひて鐵道を敷設するは將來營業の點に於て其影響如何んを憂慮せざるを得ざるなり元來鐵道の事業と申すは攻略兵略にするものを除き他の私立會社に於ては其線路運轉の收入を利せんとする商賣の事なれば最初敷設の其時より工事に伴ふて常に營業といふ分別を忘る可からざるは勿論實は鐵道會社の發起人自身に於て篤と工事にも通曉して監督の勞を執るべきこと大切なれども今の發起人は何分にも其塲合に至らず工事は勿論又其營業運轉の方法をも辨ずる者少なくして唯鐵道と云へば開業の上必ず利潤あるものの如くに心得、自分等がその資本を出しさへすれば鐵道は官の手に依頼しても自然に完成するがゆゑに工事の監督は更なり其營業の方法に不通なれども擧るべきの利は必ず擧るに相違なしと恬然これを度外に放棄するもの一二會社を除くの外比々皆然らざるはなし然れ共單に鐵道を敷設するの事業と又鐵道に因て利益を收むるの事業とは元來別々なるものにて若し鐵道發起人の考案が鐵道を敷設するだけにて他に注文なしと云ふにあらば之を政府の手に依頼するも或は其儘西洋人に請負はするも與に無造作の次第なれども其鐵道を商賣の道具に用ひて利益を得んとの計畫ならば最初より其用心あること大切なる可し

鐵道經濟論の本義に曰く鐵道營業の利潤厚薄は三個の原因に依て變ずるものなり第一は建築費の多少第二は建〓費の差異第三は營業總收入の金額にして此三者ともに最初より充分技術者の注意を求めざる可からずと盖し某の地方に鐵道を敷設したらば此れ此れの利益あるべしと云ふ一般の見積りは發起人の胸算に在ることなれ其實際に工事を仕上げて彌々其利益を見るには工師即ち技術者の技量に因て非常の相違を致すこと數に於て明白の理なり例へば同じ方向に進むの線路にても其採定の巧拙より建築費に影響を及ぼすは免れ難き次第にして左にすれば其線の上下高低少なくして隨つて傾斜の角度極めて緩なるべきものも右するがために反對の困難に遭ひ其凹凸を均しうする盛土切開のため徒に資金を投ずるもあるべき或は始めには急勾配と思はれたるものが少しの注意轉換にて案外の平路を取り得る如き便利もあるべく要するに工師其人の力にして其採定變換の趣は機微言ふべからざるの處に存在するが故に我輩素人流が傍より喙を容る可き事柄にあらずと雖ども爲めに建築費に相違を生じて會社の利潤に厚薄ある一點より見れば最も以て之に注意なかる可からざるなり又運轉費の差異に至りても例へば其線路採定の事情より直線にて濟むべきの處が曲線と爲るか或は又弧線の弧曲に急緩大小の區別を來すか將た其位置勾配の變化等にも關係して距離の遠近速力の遲速駛行の難易若しくは車輪軌條の軋轢に樣々の影響を及ぼし運轉營業の費用にまた著しき異同を致すにより線路の採定は獨り建築費の點のみならず營業費用にも永遠至大の結果を生ずるものなりと云ふ本來運轉の費用は運轉機關師の伎倆巧拙に因て多少あるに相違なけれ共機關師の腕前を同一と假定して其上に尚ほ運轉費の相違を生ずるは最初の建築技術師その責を負はざる可からざるなり第三に會社營業收入の多少は發起人の計畫せる地方全體の物産若しくは旅客徃復の状況に基くこと多分なれども同じ地方に在る線路を採定する取捨の方法も與て力あるに疑ひなきなり或は鐵道の敷設には枉げて貨物旅客の多き地方を撰ぶに及ばず苟くも鐵道あらば貨物旅客は自然に輻輳すべく即ち貨物旅客鐵道を作るに非ずして鐵道却て貨物旅客を作るものなりとの説ありと雖ども是は千里豊饒無人の沃野に鐵道を敷て開拓を爲すの塲合に限ることにて日本の如き既成舊開の國に於ては其趣これに異なるもの尠からず以上三個の原因正に鐵道營業利潤の厚薄をなすものなりとして偖て次に我輩の本問題として論ずべきは今日の如き不足拂底の工師を無理に繰合せて忍んで鐵道を敷設するよりも此不足を補ふ丈けに外國より技術者を雇込み最初踏測の事業より充分に念を入れ、地利地形の跋渉にも成るべく多人數の手を懸けて喩へば兩三線の踏測をなす所をも更に五六線を實踐して彼此甲乙互ひに比較の上其優劣を判斷し中に就て最も便なるものを撰み之を豫測して然して後ち實測に着手しいよいよ此れならば間違ひなしと云ふ最後の要點を衝留めたる處にて建築に着手すること最も安全の策にして各私立鐵道會社の特に注意す可き要點ならんと信ずるなり我輩斯く立論すればとて在來の技師が其無人多忙に乘じて故さらに測量建築の事を疎略にするならんと疑ふにあらず技師が鐵道の工事を監督するは猶ほ醫師が病人を診察治療するに等しく重き責任にして故意の怠慢なきは萬々なれども凡そ踏測豫測より實測建築に至るまでの順序に技術者の拂底なると然らざるとにては工事上全體の利害に關係あることにて即ち鐵道會社營業の利益より論ずるも永遠の策は測量者建築者を充分にして線路の採定軌條の敷設にこの上なき注意を盡し以て後日に遺憾なからしむるの方策は今に及んでその覺悟あるべきことなり