「歐亞鐵道計畫の三大線路」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「歐亞鐵道計畫の三大線路」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

歐亞鐵道計畫の三大線路

人爲の文明は造化鬼神をも欺くものなり十九世紀の今日に際して事の最も驚くべきは運輸交通の便路にして汽船の往來數千里の海洋を踏むこと宛ながら比隣の如く五洲東極より西端まで一として往く可からざるの處なく世界の距離これがために短縮したるは實に文明の功徳仰いで高しと云ふ可し然れ共大洋は本來無碍の坦道なり汽船のこれに駕して自在に奔駛し得るは尚ほ怪しむに足らずと雖ども陸上の汽車に至りては幾千仭の嶺を踰え又幾千尺の谷を跨り造化の險峻を打破して萬里一瞬の駛力を顯はすに用ただ之を妙と云ふの外あらざるなり千八百三十年英國リバプール、マンチエスタルの間に甫めて鐵道の開けてより僅々五十餘年の内に全世界の延長線路は方今凡そ三十七萬英里の多きに達し米國太平洋鐵道工事の如きは爾かも大陸の兩端を貫きて桑港より紐育に至るまで三千四百英里の道を僅々六日七夜にして達するとは最初誰人にも思寄らざりし次第なるに今日に及んでは又又加奈陀鐵道も落成し米國の兩岸をこの南北の二線にて連接せしめたるは偉大の事業と云ふべきものなれ共世界の進運は獨り之に留まらずして歐洲亞細亞聯絡の大鐵道また將に其功を奏せんとするの氣勢に向ひたるは我輩に於ても之を聞きて文明の進歩實に恐ろしきものなりとの嘆聲を發せざるを得ざるなり

歐州亞細亞聯絡の鐵道に關しては十數年前までは世人只之を一種の想像に附し將來斯かる出來事もあるならんか抔漠然たる漫畫を畫いて其成行を卜するの有樣なりしに今日に至りては獨り其想像の漫畫に屬せざるのみならず實際の成功も亦遠きに非ずと思はるるなる盖し歐亞聯絡の方案は始め英國人の考へに成るものにして歐羅巴土耳格より小亞細亞に出で波斯王國を經て阿富汗地方より東印度に接續し緬甸より支那雲南の交界に達して其工事を終はる者これを第一とす第二は露國政府の計畫せるサイベリヤ鐵道にて聖彼得斯堡より起り浦〓斯徳に至りて大成するものなり又第三の計畫は此頃の時事新報に登載したる佛國巴里清國北京の兩首府を聯絡せしめんと欲するものにて路筋は露領サイベリヤの國境よりウラル山の谷間を經て蒙古より南向北京に入らんといふに在り即ち以上三線路の計畫を地圖に因て徴するに第一線の發端歐洲大陸の鐵道はボスニヤ若しくはルーマニヤの諸州を通じて殆んど既に土京君斯丁堡の首府に達し且つ他の一線は對岸を超てカラバンと云へる邊りまでは線路既に開通したる處ある由に聞けば小亞細亞より波斯を經てこれを阿富汗若しくはバルチスタンに續け次第印度には既に巳に其西端よりして東境に至るまで鐵道一面普及しあるがゆゑに歐洲より一駛忽ち印度東部に到來するに至ると必ずしも困難に非ざるべし又印度の東なる緬甸國も昨年既に英國の併呑せられて英人は其裏手より支那雲南の境界に貿易を開かんと欲し當時計畫の最中なれば印度鐵道を延ばして緬甸より之を支那に通ずるの策は必ず英人の胸算に成る可きなり然してこれと同時に支那政府に於ては今度彌彌北京廣東間に鐵道を敷設するの議に一决して李鴻章と特約したる米國の銀行が其工事を引受け李氏の股肱たる馬建忠は右の約束人ミトキーウヰツ氏と與に我横濱港を經て米國華聖頓に赴きたるの事實もあれば支那内地鐵道の起工至近に在ること疑ある可からず斯くの如く一方に支那政府が其工事を進むると同時に一方に緬甸の鐵道も亦落成して極東亞細亞より印度の西境まで汽車の徃來開くるならんとの想像は敢て無稽ならざるのみか英人が確かに緬甸の裏手より支那貿易を盛んにせんとするの考へならば必ず其鐵道の敷設を急ぐことならん今より二年前英人の未だ緬甸を占領せざる時に當り有名なる旅行者コルクホン氏が該地方を實踐して後ち印度鐵道を緬甸に延ばすの要用を倫敦商法會議所に勸告したることあり爾來其成行の如何んを知らずと雖ども尋で英政府が大に緬甸に侵略策を用ひたるの形迹より察すれば以て其考への所在を知るに足るなり故に支那緬甸及び印度三國の聯絡鐵道は成功遠きにあらざるものとして次に困難なるは印度の西境より土耳格に通ずるまでの工事にて今に至るも是ぞと云ふ起工計畫の沙汰を聞かずと雖ども阿富汗は英國が據て以て露國の南侵に抗する要害の地なり加ふるにサイベリヤの鐵道を延長して中途より南折すれば露國は印度阿富汗の後背を衝くの便利あるがゆゑに英國は又これに備へんため阿富汗の地方に鐵道を架して兵の運搬を迅速にするの必要に會しこの線路が偶然にも歐亞聯絡の用を爲すことなきを期せざるなり又波斯今日の國状は殆んど英國保護の下に立つといふ衰微の次第にて迚も自國の力に依頼して鐵道を敷くべき裕餘のある筈はなけれ共前に云へる如く露領サイベリヤの鐵道追追竣成して南侵の便を増すことなるに至りては英國は兵事上の競爭に於て亞細亞の南岸に線路の聯絡を怠る能はざるの塲合に迫り遂に小亞細亞を一飛して印度より土耳古まで鐵道全開の計畫をなさんやも知るべからず商賣貿易の點に於ては亞細亞の海岸に鐵道の聯絡を續けて果して利益あるや否やを判定すること難しと雖ども軍用兵事の注文はまた格別にて英露の軋轢より案外の結果を生じ、歐亞鐵道の接續期せざるに却て商賣貿易の助けを爲すの奇觀もある可しと信ずるなり  (未完)