「歐亞鐵道計畫の三大線路(前號の續)」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「歐亞鐵道計畫の三大線路(前號の續)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

前號に記載したる第一線歐亞聯絡の鐵道工事を假りに竣成の見込なきものとするも第二の線路たる露國ザイベリヤ鐵道に至りては其成功疑ふ可らず是より先き露國政府がサイベリヤに鐵道敷設の計畫を爲したるは一朝夕の故にあらざりしに彌彌本年に及んで此議は既に參事院の議决を經過し皇帝の裁可をも得てサイベリヤ總督は既に線路實測工事監督の任命を托せられたること倫敦タイムスの報ずる所にして其方案の大略を聞くに別項の地圖にも示したるが如く露京聖彼得斯堡よりチーメン迄線路の行程五日間チーメンよりトムスク迄二日間トムスクよりストレチンスク迄三日間ストレチンスクよりハンカ湖に沿ふて浦鹽斯徳港に至るまで亦同く五日間なりといふ然るに聖彼得斯堡より南東に延ばしたる鐵道は次第に落成して今日は既にサイベリヤの境に達しチーメンまで全線の開通近きに在る由なるが故露京を發してチーメン迄行程五日間の線路は既に全く竣成のものと看るを得べく、此れより東南サイベリヤの原野を通過して浦鹽斯徳に達するにはその距離何程なるや詳細を知るに由なけれども暫く十日間の行程といふに因りて推測するに凡そ五千英里内外ならん短き里程にあらずと雖も十九世紀の今日、五千英里の鐵道を敷設するは左までの大業にもあらず米國の大陸を横切りたる三千四百英里の線路に比して其倍數に上らざるを知る可し又露國政府がこの鐵道を建築するその目的は軍用上、浦鹽斯徳港に聯絡を通じて東亞細亞に出口を求めんとするものならんなれば全力を盡しても其成功を計る可きや明なり顧ふに露國が自由に海に出るの門を開かんとして其路を求めたるは一朝一夕の事にあらずと雖も如何にせん英國と云へる強敵ありて常に其南向の計を妨げ歐羅巴に在りてはバルチツク海を鎖し又黒海の門戸を押へ土耳古を藩塀として波斯を楯にし、阿富汗印度亞細亞一帶の海岸は總て英人の占領に歸して露國隨て出でんとすれば英國隨てこれを遮ぎり西方の門戸は悉く閉塞せられて今は東亞細亞の一端より辛ふじて海に出でんとする處を英國は昨年緬甸を略し又支那と盟約して封鎖の策に怠る所あらざれば露國最後の方策は浦鹽斯徳の守を嚴にし極東の海面に四通八達の運動を逞ふせんとするに在るのみ是れ露國の要策にして其目的を達するには一日も早くサイベリヤの鐵道を落成せしむるの外ある可らざるなり

第三の線路は今回佛蘭西のレビユーに載せたるものにして巴里よりエカトリネンブルグに至るの距離凡そ二千六百英里とすエカトリネンブルグはサイベリヤの境界に接する露國の領分にして聖彼得斯堡より來る所の鐵道亦既にこれに接續せんとし又墺地利匈牙利の方より露國に入るの線路もオレブルグまで聯絡して之をエカトリネンブルグに通ずるは容易ならん要するに歐羅巴大陸に在りては鐵道線路東西に縱横するがゆゑ中間所所の斷續を連接して一大長線を作るに困難なけれども亞細亞大陸に入る時は人烟稀にして道路開けず往く所深山幽谷にあらざれば廣漠たる不毛の原野にして斯る地方に鐵道を敷設するは難事中の難事なれば例へば露國サイベリヤ鐵道の如きも縱令へ其目的は軍用兵備の一點に在りとするも敷設の費用は尋常にあらざること推して知るべし然るに此第三線路の利を説くものは謂へらくエカトリネンブルグを超えてウラル山の山脈を過るに中間平坦の土地は水平を拔くこと三百五十メトル(一メトルは我三尺三寸)の處ありこれに線路を採て別圖に示す如くオムスクよりトムスクに至り更に轉じてクラスノアルスクに掛りカラールより蒙古の境界に進行し是れより南下して北京に通ずるまでの里程エカトリネンブルグより起て凡そ三千六百英里なり顧ふに此線路は歐亞間を聯絡するに距離最も短く工事亦最も容易なるものならんなれば今より十年を出でずして其成功を見ることあらんと、三千六百英里の鐵道亦長きに似たれども實際は米國桑港紐育間の鐵道に僅僅二百英里を足したる迄の線路なれば之を敷設するの工事决して困難にあらざるべきなり唯我輩は佛蘭西レビユー記者がこの新線路の起工に容易なる丈けを述べて次に肝心なる問題即ちこの鐵道は何人が計畫を爲して事實成功の見込あるものなるや或は又全くの議論に止まり將來斯る事もあるべしと單に其想像を描きたるやの説明なきを遺憾とするのみ

以上三線路の計畫各其理由なきにあらずして工事の難易距離の遠隔亦相彷彿たるものならんなれば孰れが利孰れが損か、得て判斷す可らすと雖ども爰に我輩の推測を以てすれば最後の一線巴里より北京に通ずるの鐵道は理論は兎も角も實際に困難ならんと思はるるは佛仁にもせよ其他の國民にもせよ今の通商貿易のみを目的にして斯る鐵道を起し果して出入相償ふて利益ある可きや甚だ疑はしきの一事なり故に今姑く之を別にして第一線英國が商賣上將た兵事上の目的より印度鐵道を中心にして東西亞歐を聯絡するの方案と第二線露國政府がサイベリヤ鐵道を延ばして浦鹽斯徳に到らしむるの計畫とは二者與に實際に期す可き話にして特に西字新聞の報道に據ればサイベリヤ鐵道は將來五年を期して竣成の見積なりといふ五年間に事の成否は兎も角も文明の大勢推變するに及んでは鐵道を以て歐洲と亞細亞との氣脈を通ずるの大業必ず成功の曉あらん我輩は之を今日に豫記して偏に將來の成行を卜せんと欲するものなり               (畢)